文政十二年の七月、次郎長は禅叢寺の手習い所を追い出された。
けれども商人の倅が、読み書き十露盤を知らないではどうにもならない、というので直、次郎八はときおり愛し合いながら相談し、次郎長を、洞村の勝五郎という者に預けることにした。
勝五郎は直の親族であった。
「だれか、長五郎を預かって厳しく教えてくれそうな者はないかなあ。儂も何人かに頼んではみたものの、みな次郎長の乱暴を知っているから引き受けてはくれぬ」
「それだったら、おまいさん、私の縁者の勝五郎はどうだろう。あの人は字を知ってますし、十露盤も達者ですよ」
「おおっ、洞村の勝五郎さんか。一度だけお目にかかったことがあるが、学のあるお方とお見受けした。それに……」
「それになんですよ」
「勝五郎は気が弱いから、私が頼めばけして嫌たあ言いませんよ」
「それはようございます。じゃ、勝五郎に頼みましょう」
と、そういうことになって次郎八は勝五郎に頼んだ。
けれども勝五郎はこれを断った。
勝五郎は次郎八に言った。
「次郎八さん、おまえさま、なんで私に頼もうと思いなさった」
「そりゃあ、おまえさんが人にもの頼まれて断れないほどに気が弱いからだよ。頼みやすいからな」
「本人を目の前にしてよく言いますね。じゃあひとつお尋ねしますがね、そんな気が弱い勝五郎に、乱暴者の次郎長を厳しく教え諭すなんてことができると思いますか」
「あ、そうか。そこに気がつかなかった」
「でございましょう、一ン日経たないうちに、『勝五郎どん、ちょっとそこの湯呑みとってくれ』『へい』てなことになっちまいますよ。自慢じゃありませんが、あたしゃ、それくらい気が弱いんです」
「なんだか威張ってんだか、謝ってんだか」
「すみません。謝ってるんですよ。とにかく、あんな乱暴者、私には無理です。さようなら御免」
と帰ってしまい、三日経たぬうちに次郎長は家に帰された。
その後ろ影を見送って次郎八は言った。
「直、奴はだめだ」
「じゃあ、どんな人がいいんだろうなあ」
「この私が頭を下げて頼んでも、『やかましいやいっ、そんな餓鬼預かれるかっ』ってぇくらいの乱暴者がいい」
「そんなものかねぇ。でもおまいさん、それじゃあ、預かってもらえないんじゃないんですか」
「あ、そうか」
「そうですよ。けど乱暴者がいいってぇんなら一人、心当たりがありますよ」
「そうか、誰だ」
「あたしの兄さんですよ」
「あ、兄さん、というと、あの……」
「そう、兵吉ですよ」
「そ、それは……」
と、次郎八が絶句したのには訳があった。
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