産むって、それ、僕の子なの?」

バブル世代の建築士・雲江元也は、外見の良さとスマートな立ち回りから女性には苦労しなかった。特に年上の女性との関係は若いモデルとの付き合いとは違って、彼にとっても刺激的で気の置けない関係だった。だがそんな日々は長くは続かず……。
 妊娠と出産にまつわる切実な想いを描いた7編の短編集『産まなくても、産めなくても』から「水のような、酒のような」を特別公開。

結局、その夜、部屋にたどり着いたのは午前四時近くだった。いろいろなことがありすぎて、留守番電話に入っていた舌足らずなメッセージが、パーティーで会ったモデルだと気がつくまでに数分かかった。

 そのモデルとは十ヵ月ほどつきあってなんとなく別れた。十ヵ月というのは正しくないかもしれない。自然消滅に持ち込んだのだ。週に一、二度は会っていたけれど、大きなプロジェクトが始まったことを理由に二週間に一度、月に一度、と少しずつ減らしていった。

「時間ができたら連絡する」

 最後のほうはそれを三回ほどいって、そのまま放置した。多少の悪態はつかれたけれど、大してもつれずに解消できた。大きなプロジェクトというのは噓ではない。横浜の低層マンション一棟を請け負ったのだ。

 プロジェクトが始まってすぐ、担当のインテリアコーディネーターである鹿倉早苗とつきあい出した。雲江より四歳年上のバツイチだった。新しいレストラン、おいしいワイン、選ばれた人だけが招かれるイベントやパーティー、流行のファッション。彼女はいろいろなことを雲江に教えてくれた。刺激的なセックスのやり方も。

「結婚はもうこりごり」

「どんなに好きな人でも三日は一緒にいられない」

 しょっちゅう、そんなことをいっていた。

 二人のアシスタントを使い、個人で仕事をしている彼女は、自由で自立していて実際の年齢差よりずっと大人に思えた。元の結婚相手とのあいだに子供はいなかったけれど、彼と時々会っていることを隠そうとしないのも、都会的でかっこよく見えた。

 例の携帯電話の先輩につきあっているのがばれた時、こういわれた。

「へえ。早苗さん、今度はクモみたいな若いのにいったんだ。この間まで船山氏とつきあってたって噂だけど。反動かな」

 船山というのは、雲江たちの大クライアントである大手のデベロッパーの専務で、よくメディアにも出ている業界のスターだ。もちろん不倫である。さすがに良い気持ちはしなかったけれど、自分が「あの」船山の後だと思うと、内心誇らしくもあった。

 生理が遅れているといわれたのは、初めてだった。言葉が出なかった。かれこれ三週間も遅れているらしい。六本木のピラミデの最上階にあるキケロというバーにいた。店の奥ではピアニストが夜の邪魔にならないようなボリュームで、ジャズを奏でている。

 妊娠しているかもしれないというのに、早苗は、桃の果汁をシャンパンで割ったベリーニというカクテルを飲んでいた。

「一ヵ月なかったら、病院いってくるわ」

「え……。っていうか、ピル飲んでコントロールしてるっていってたよね……」

「ああ。あれは旅行の時とかね」

 頭の中で、可能性のある夜の日付がぐるぐる回る。そして、あいまいな知識での逆算が始まった。

「私も三十過ぎてるし……、その……、産むのは大丈夫よね?」

「う、産む……、産むって、それ、僕の子なの?」

 早苗の表情がひきつった。目がつり上がり、口があんぐり開いている。怒りという感情だけが顔に張り付いていた。

「あんたって、サイテーね」

 二人はそれきり無言のまま店を出た。いつものように雲江が支払いをすませた。この一年で、早苗が財布に手をかけたのは、たった二度だけだ。エレベーターを降りたところで、雲江はいった。

「ちゃんと費用は持つから」

 いい終わらないうちに、思い切り頰をはたかれた。数時間、手の跡が残るほどのビンタだ。早苗は六本木通りに向かって歩き出した。一切振り返らなかった。地面をはじくヒールの音がいつもより大きく感じられた。

 本当に妊娠していたのか、していたとしたら自分の子供なのか、雲江は確認できないままに終わった。ビンタから数週間後、タクシーの中から船山専務と腕をからませている早苗を見かけた時はほっとしてしまった。銀座の裏通り、有名な鮨屋のすぐ近くだ。

 当時はあちらこちらに転がっている話だった。

 自分は若かった。東京も日本もまだ若かった。若いということはイコール欲望だ。欲望の量や種類が多いのは美しいことで、それを実現させるのは正しい行ないだった。あの時代では。

 物事のほとんどは右肩上がりで、大それた野望や高望みをしなければ、だいたいの望みはかなった。そんな空気の中で「若者」と呼ばれる時期を過ごした。

 それが間違った認識だとわかったのは、あの時期が後からバブルと名付けられたからだ。大きな水槽のある邸宅の持ち主は自己破産をしたと日経新聞で知った。会社は倒産。負債額は七十億円だという。先輩からなかなか買い手がつかないと聞いた時、世の中の色彩がすっかり変わってしまったと実感した。

 不動産会社だけではない。そこに関わる建築事務所でもハジけたところは少なくなかった。雲江のいる事務所は、小規模の個人宅も地道に請け負ったり、リフォームの部署を拡大したりで、なんとか乗り切った。

 山一證券が経営破綻で廃業し、水槽のある邸宅はデリバリーピザのチェーン店の経営元が買った。雲江は、変わらず家の設計図を描いた。いくつもの幸せな家族たちの箱を作った。

 三十代になると、学生時代の同級生や事務所の同僚が結婚していった。おめでとう、と口ではいいつつも、心の中では勝手に哀れみの感情を抱いていた。お前もついに箱に押し込められるのか、と思った。

 バブルはハジけても、恋愛相手には困らなかった。世の中の風向きと逆行するように、デートの店をこだわって選び、クリスマスにはアクセサリーのプレゼント&ホテルの宿泊を実行し、誕生日にはちょっとしたサプライズをしかけ続けた。恋愛をゲームと考えれば、王道の作戦はやはり効果的だった。

「これは私の物語だ」─そう思える登場人物に、きっと出会える。はあちゅう氏推薦!

この連載について

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産まなくても、産めなくても

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

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