精子と卵子が出会う確率は5億分の1。

50歳を目前にしてやっと結婚した建築士の雲江元也。建築士としてはバブル時代に派手な案件をいくつも手掛け、プライヴェートでは背が高く顔もいいのが幸いし、女性遍歴もそれなりに豪華だ。50歳近くまで独身貴族をきどってきた彼がついに結婚、子どもを望んだ時、その人生が足元から崩れ落ちるような出来事が──。
 妊娠と出産にまつわる切実な想いを描いた7編の短編集『産まなくても、産めなくても』から「水のような、酒のような」を特別公開。

「健康な男性の一回の射精で放出される精子って、いくつぐらいだと思います? 数百? 数千? いや、最大でだいたい五億といわれているんですよ、一億から五億。で、第一関門である子宮頸管粘液を通って、子宮の中まで入れるのは約五パーセント。二千五百万匹ですね。さらに奥まで届いて、卵管膨大部、つまり最後に争えるのは、たった数匹。最終的に、無事、卵子と結ばれるのは、もちろんその中の一匹だけなんですよ。いろいろなデータがありますが、うちはこの数字でやってます」

 雲江元也は、ドクターの口から出る数字が絵空事のようにしか思えなかった。子宮なんとかだの、卵管なんとかだの、よくわからない単語と実感のわかない数字。これが自分になんの関係があるというのだ。

 銀座にある「山田泌尿器科クリニック」のドクターは、ほどよく日に焼け、体つきはがっしりとしていて、ラグビー選手といっても通りそうだ。よく通る声で、一言一言をはっきりと話す。その明瞭さが、よけいに現実味を失わせている。

「なんの問題がない場合でも、精子と卵子が出会うのは五億分の一の確率なんですよ」

「そうなんですか……。なんだか、自分が今ここに存在していることが奇跡のように思えちゃいますね」

 山田ドクターは大げさな笑みを浮かべた。

「そう、まさに奇跡ですよ。この世の中にいるすべての人間は、消えていった数えきれない精子たちからしたら、みんな超幸運、いや超強運な存在なんです。奇跡なんて、そうそう起こらなくて当たり前でしょう。でも、ちょっとした手助けでそれを起こすことができる。我々がそのお手伝いをさせていただく、そんなふうに考えてみてはいかがでしょうか」

 ドクターの年齢は四十手前ぐらいに思えた。雲江の一回り下だ。彼は結婚しているのだろうか。子供はいるのだろうか。いるとしたら何人ぐらいだろうか。そんなことが頭の中をめぐった。ドクターは相変わらず明瞭な口調で治療の説明を始めた。妻の美貴子は、無表情のまま何度もうなずき、時々メモをとっている。

 診察を終えた後、気晴らしにソニービルの向かいに新しく出来た商業施設をのぞきに行った。ファッションブランドの店、雑貨屋や総菜屋、レストランやら居酒屋やらが、あらゆる欲望に応えようと競っている。人々がそれに群がっている。

 街は家族連れとカップルが目についた。雲江は、五億分の一が世の中にあふれているのだ、そんなふうに思った。

 よく晴れた日曜日の午後、「無精子症」という宣告を受けた。

 今までと同じ景色が少しだけ違って見える。ミーハーな新しい場所に行くのは好きなのに、今日は人ごみがうっとうしい。はなやかな雑踏の中で自分だけが取り残されている気分だ。

 はっきりと落ち込んでいるわけではない。実感がわかないのだ。自分に精子がないということに、ただ驚いている。自分は男の着ぐるみをまとった、別の生き物だったのだろうか。

 夕食は、自宅近くのビストロに行った。美貴子は、気を遣っているようで、雲江の食べたいものを何でも作るといってくれた。けれど、彼女だって気が重くなっているはずだ。自分よりももっとまいっているかもしれない。あれだけ熱望している妊娠への可能性がかなり低いということがわかってしまったのだから。スーパーに寄りたがる美貴子を半ば強引に店に連れていった。

 ビストロといっても、頼めば野菜炒めやチャーハンも作ってくれる気軽な店だ。客はほとんど地元の常連ばかり。まかないのチキンカレーはもはや「裏」とはいえないほど人気の裏メニューである。

 店に入ると、顔なじみの家族がテーブルを囲んでいた。五十一歳になる雲江と三十八歳の美貴子のちょうど中間の世代の夫婦と、小学生ぐらいの娘と息子。娘と息子がポテトのグラタンを取り合い、母親がそれを𠮟る様子を、父親は赤ワインを飲みながら眺めていた。週末のありふれた光景だ。

 雲江はドイツビールを、美貴子はジンジャエールを注文した。

「ワインでも飲んだら?」

「うん……。そうしようかな」

 メニューを指差していった。

「この白、すっきりしておいしいはずだよ」

「じゃあ、それを」

 やりとりがどことなく、お互いを探っているようだ。

 マッシュルームのサラダ、鴨のリエット、真鱈のムニエル、野菜のポタージュ、タルタルステーキのポテトフライ添え。いつものメニューをいつものように頼む。何もかもが今までと同じ日常なのに、頭の中では無精子症という言葉がうごめいている。世の中から責められている気がする。美貴子はこの一年半、ずっとこんな気持ちだったのだろうか。

 ウエイターがてきぱきとした仕草で皿を運んでくる。美貴子は皿に手をつけずに、ゆっくりとワインを味わった。グラスをおくと、まっすぐに雲江を見た。

「クリニックに行ってくれて、本当にありがとう」

「や……、そんな。これは二人の問題だから……」

 美貴子は涙ぐんだ。

「治療、してくれるんでしょう?」

「……。治療……」

「山田先生、いってたじゃない。無精子症といったって、本当に精子がゼロの人はあまりいない。手術を受ければ、きっと採取できるって」

 治療という言葉が、するりと手術という言葉に置き換えられている。雲江は思わず、妻の言葉をさえぎった。

「ちょっと待ってくれ。おれはさっき、精子がないって宣告されて驚いているんだ。その上、いきなり手術なんていわれたって、何がなんだかわからないよ」

 妻は、うつむいて、小さな声で「ごめんなさい」といった。いつも愛想のいいウエイターは、空気を察したのか、必要最低限しかこちらに近寄ってこなかった。男が不妊治療のために手術をするという選択があることも、昨日まで知らなかった。

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産まなくても、産めなくても

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

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