交換不能な「このわたし」をありのままに受け入れる自己受容。そして対人関係の基礎に懐疑を置かず、無条件の信頼を置くべきだとする他者信頼。青年にとって、この2つはそれなりに納得できる話だった。しかし、他者貢献についてはよくわからない。もしもその貢献が「他者のため」だというのなら、そんなものは苦痛に満ちた自己犠牲でしかない。一方、もしもその貢献が「自分のため」だというのなら、それは完全な偽善だ。ここは絶対にはっきりさせておかなければならない。青年は毅然とした口ぶりで語りはじめた。
若者は大人よりも前を歩いている
青年 仕事に他者貢献の側面があることは認めましょう。ですが、表向きには他者に貢献しているといいながら、結局は自分のためだとするロジックは、どう考えても偽善以外の何物でもありません。先生は、これをどう説明されるのです!?
哲人 次のような場面を想像してください。ある家庭で夕食が終わった後、食卓の上に食器が残されている。子どもたちは自分の部屋に戻り、夫はソファに座ってテレビを見ている。妻(わたし)が後片づけをするほかない。しかも家族は、それを当然だと思っていて手伝う素振りも見せない。普通に考えれば、「なぜ手伝ってくれないのか?」「なぜわたしだけ働かないといけないのか?」という状況です。
しかしこのとき、たとえ家族から「ありがとう」の言葉が聞けなかったとしても、食器を片づけながら「わたしは家族の役に立てている」と考えてほしいのです。他者がわたしになにをしてくれるかではなく、わたしが他者になにをできるかを考え、実践していきたいのです。その貢献感さえ持てれば、目の前の現実はまったく違った色彩を帯びてくるでしょう。
事実、ここでイライラしながらお皿を洗っていても、自分がおもしろくないばかりか、家族だって近づきたいとは思いません。一方、楽しそうに鼻歌でも歌いながらお皿を洗っていれば、子どもたちも手伝ってくれるかもしれない。少なくとも、手伝いやすい雰囲気はできあがります。
青年 まあ、その場面に関していえば、そうでしょう。
哲人 それでは、どうしてここで貢献感が持てるのか? これは家族のことを「仲間」だと思えているからです。そうでなければ、どうしたって「なぜわたしだけが?」「なぜみんな手伝ってくれないのか?」という発想になってしまいます。
他者を「敵」だと見なしたままおこなう貢献は、もしかすると偽善につながるのかもしれません。しかし、他者が「仲間」であるのなら、いかなる貢献も偽善にはならないはずです。あなたがずっと偽善という言葉にこだわっているのは、まだ共同体感覚を理解できていないからです。
青年 ううむ。
哲人 便宜上ここまで、自己受容、他者信頼、他者貢献という順番でお話ししてきました。しかし、この3つはひとつとして欠かすことのできない、いわば円環構造として結びついています。
ありのままの自分を受け入れる——つまり「自己受容」する——からこそ、裏切りを怖れることなく「他者信頼」することができる。そして他者に無条件の信頼を寄せて、人々は自分の仲間だと思えているからこそ、「他者貢献」することができる。さらには他者に貢献するからこそ、「わたしは誰かの役に立っている」と実感し、ありのままの自分を受け入れることができる。「自己受容」することができる。……あなたは、先日お取りになったメモはお持ちですか?
青年 ああ、あのアドラー心理学の掲げる目標に関するメモですね。もちろんあの日以来、肌身離さず持っていますよ。こちらです。
行動面の目標
①自立すること
②社会と調和して暮らせること
この行動を支える心理面の目標
①わたしには能力がある、という意識
②人々はわたしの仲間である、という意識
哲人 こちらのメモも、先ほどの話と重ね合わせればより深く理解できるはずです。つまり、①にある「自立すること」と「わたしには能力がある、という意識」は、自己受容に関する話ですね。一方、②にある「社会と調和して暮らせること」と「人々はわたしの仲間である、という意識」は、他者信頼につながり、他者貢献につながっていく。
青年 ……なるほど。人生の目標は共同体感覚だというわけですね。しかし、これは整理するのに時間がかかりそうだ。
哲人 おそらくそうでしょう。アドラー自身、「人間を理解するのは容易ではない。個人心理学は、おそらくすべての心理学のなかで、学び実践することが、もっとも困難である」と述べているくらいです。
青年 そうなんですよ! 理論は納得できても、実践がむずかしいのです!
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