名前のある顔
オリンピックの顔と顔。 市川崑監督による映画「東京オリンピック」で印象的なのは、人の顔だ。巨大な式典の全景を撮影し熱戦の模様を記録するだけではなく、選手でも役員でもない、ただそこにいる人を撮る。「あのじいさんだ、帽子のじいさん」。
「いだてん」は、市川崑のこの態度、単なる式典ではなく、人の顔を撮る態度から多くを引き出してきた。毎回流れるオープニングで、空を見上げながら拍手をする人々の顔、顔、顔は、市川崑の映画から引用されたものだ。
しかし、それだけではない。「いだてん」の顔には、名前がある。
いよいよ開会式が始まり、選手達が入場してくる。ギリシャを先頭に、オーストラリア、カナダ、大国が参加する中、たった2人のコンゴが入場する。市川崑の「東京オリンピック」でほんの数秒映るコンゴが、「いだてん」では大きくクローズアップされる。ヨンベとウランダ。わたしたちは、彼らの名前を即座に呼ぶことができる。
「いだてん」は、そこにはいない顔にも眼を向ける。インドの入場を見て、アルファベット順ならば次に来るはずのインドネシアが欠けていることを、東龍太郎は思い出す。「ああ、そうそうマーちゃん。アレンがよろしくって」。ここにあの暢気なアレンが再登場することを誰が予想しただろう。そういえば、ジャカルタ大会の騒動で、わたしたちはインドネシアという国をアレンという通訳者の名前によって記憶していたのだ。羽田まで来て出場がかなわなかったインドネシア選手団に東が頭を下げると、アレンは言う。「これは、タバタの大会。タバタのオリンピック。だから、出たかった」。アレンもまた、タバタという名前によって、そしてもう1人の日本人のことばによって日本という国を記憶している。「さからわずして、勝つ!」
観客席を見れば、可児、河野、野口、高石、野田、鶴田、大横田、どの顔にも名前がある。金栗四三がしみじみと言う。「晴れてよかった。『あのとき』は」。河野が後ろの東に声をかける。「晴れて良かったですね、都知事」「あのときは土砂降りでしたもんねえ」。彼らは同じこの神宮で、21年前に行われた学徒出陣のことを思い出している。30000人の若者を送り出すために、顔を硬直させてみなが万歳を繰り返す、それに耐えきれなくなった田畑政治は手を挙げることもなく、足早に去って行く河野を追ってスタンド裏のくらがりに入った。そして万歳がこだまするスタジアムで宣言した。「俺はあきらめん。オリンピックはやる、必ず、ここで!」
21年後の今、それが実現した。金栗が感極まって、万歳を叫ぶ。野口が応じる。河野も。東も。そして「あのとき」は万歳をしなかった田畑も、いまは晴れ晴れと万歳をする。誰のために? 日本選手団に? 天皇陛下に? いや、この万歳が、かつてのあの万歳ではないこと、万歳が、いかなる禍々しい力にも与しない、感情の爆発であることを確かめるために。
スタジアムへ
その、少し前のこと。 ちゃんぽんの店水明亭で、聖火リレー最終ランナーの坂井義則は消沈している。そこに金栗四三が励ましにやってくる。
「金栗先生は、なぜ走るんですか?」「それが・・・いっちょんわからん。」金栗が坂井の足を叩くとふるえてる。坂井は、彼を快活に「8月6日」と呼んだ田畑のことを「あのひと」と言う。「ぼくはあのひとを恨みます。ただその日に生まれただけなのに、ぼくなんか何者でもないのに、なぜぼくが走るんですか」。
金栗は問いには答えず「すんまっせん。お水ばいただきます」と、まるで飲み水を頼むように声をかけてから台所に引っ込む。そしてシャツ一枚になった坂井君に、突然冷や水を浴びせる。冷水浴は四三の火だ。冷水をかぶる。ひやーっと声が上がり、煩悩は失せ、毛穴のふさがった体に火がともり、もうすっかり駈け出す気になってしまう。「どうね、おちついた?」金栗はたずねる。落ち着いたも何もない。いい年してやることがむちゃくちゃだ。「なーんもかんがえんと、走ればよか!」四三は、役員の用意していた聖火のトーチを手渡す。トーチには、まだ火は点いていない。けれど、これは、もう一つのリレー、冷たさで火をともすリレーだ。
アスファルトに円が描かれる。坂井君は、円に入る。そこへ前の走者が駆けてくる。彼女の顔は、とても印象的だ。あまりに印象的なので、すでに物語のどこかで見ていたような気がしてしまう。なんて名前だっけ。あとでエンドクレジットを食い入るように見て、鈴木久美江という役名で、演じているのは清田みくりという人だと知る。どちらも初めて見る名前だった。彼女もまた、円の中から駆けてきたのだろう。円から円へ、聖火が移される。輪と輪が重なる旗印のように。頑張って、と彼女が声をかけ、坂井君は、はい、と答える。もう駈け出すだけだ。
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