青年は考えた。アドラー心理学では徹底して対人関係を問う。そして対人関係の最終目的地は、共同体感覚である。しかし、ほんとうにそれだけでいいのだろうか? わたしはもっと違ったなにかを成し遂げるために、この世に生を受けたのではないか。人生の意味とはなにか。わたしはどこに向かい、どんな生を送ろうとしているのか。考えれば考えるほど、青年は自分がちっぽけな存在に思えてくるのだった。
自己嫌悪から自意識過剰へ
哲人 いささか久しぶりですね。
青年 ええ。およそ1カ月ぶりです。あれからずっと、共同体感覚の意味について考えていました。
哲人 いかがですか?
青年 たしかに共同体感覚は魅力的な考えです。たとえば、われわれが根源的な欲求として抱える「ここにいてもいいのだ」という所属感。これなどはまさに、われわれが社会的な生き物であることを喝破した、見事な洞察だと思います。
哲人 ……見事な洞察だが、しかし?
青年 ふふふ、よくおわかりになりましたね。そう、問題は残っています。正直に申し上げて、宇宙が云々という話はさっぱりわかりませんし、言葉の端々に宗教じみた匂い、ある種の抹香めいた匂いを感じとってしまいます。
哲人 アドラーが共同体感覚の概念を提唱したときにも、同じような反発はたくさんありました。心理学は科学であるべきなのに、アドラーは「価値」の問題を語り始めた。そんなものは科学ではない、と。
青年 それで、なぜわからないのか自分なりに考えてみたのですが、たぶん順番の問題だと思うのです。いきなり宇宙だの無生物だのと過去や未来だのと考えるから、話が見えなくなってしまう。
そうではなく、まずは「わたし」について、しっかり理解する。続いて、一対一の関係、つまり「わたしとあなた」の対人関係を考える。そうしてようやく、大きな共同体が見えてくるのではないかと。
哲人 なるほど、それはいい順番です。
青年 そこで、最初に聞きたいのが「自己への執着」です。先生は「わたし」に執着することをやめて、「他者への関心」に切り替えよ、とおっしゃる。他者への関心が大切だというのは、事実そのとおりでしょう。同意します。しかし、われわれはどうしたって自分が気になるし、自分ばかりを見てしまう。
哲人 なぜ自分が気になるのか、考えてみましたか?
青年 考えました。たとえば、わたしがナルシストのように自分を愛し、惚れ惚れと自分を見つめているのなら、話も早かったのかもしれません。「もっと他者に関心を持て」というのは真っ当な指摘ですからね。しかし、わたしは自分を愛するナルシストではなく、己を忌み嫌うリアリストです。己のことを嫌悪しているからこそ、自分ばかりを見ている。自分に自信が持てないからこそ、自意識過剰になっているのです。
哲人 あなたはどんなときに、ご自身が自意識過剰であると感じますか?
青年 たとえば会議のとき、なかなか手を挙げられない。「こんな質問をしたら笑われるかもしれない」「的外れな意見だと馬鹿にされるかもしれない」と余計なことを考え、躊躇してしまう。いや、それどころか人前で軽い冗談を飛ばすことにも、ためらいを覚えてしまう。いつも自意識が自分にブレーキをかけ、その一挙手一投足をがんじがらめに縛りつけている。無邪気に振る舞うことを、わたしの自意識が許してくれないのです。
先生の答えは聞くまでもありませんよ。いつものとおり「勇気を持て」のひと言なのでしょう。けどね、そんな言葉、わたしにはなんの役にも立ちません。これは勇気以前の問題なのですから。
哲人 わかりました。前回は共同体感覚の全体像についてお話ししましたが、今日はもっと深いところまで掘り下げていきましょう。
青年 それで、話はどこに行き着きます?
哲人 おそらく「幸福とはなにか?」というテーマにまで及んでくるでしょう。
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