伝わらなくても、それでも、それでも

cakesで「ハッピーエンドに殺されない」を連載中の牧村朝子さんと、『五つ数えれば三日月が』が芥川賞候補となった李琴峰さんの対談、最終回です。前回は、台湾や中国での「LGBT」の表現方法で盛り上がりましたが、今回は『五つ数えれば三日月が』の芥川賞選評への違和感を中心に語っていきます。


左:李琴峰さん 右:牧村朝子さん

牧村朝子(以下、朝子) ここからは、『五つ数えれば三日月が』芥川賞選評の話をしていきましょう。わたしがcakesで連載しているエッセイの読者投稿欄に、「選評を読んで悲しくなっちゃったんです」って書いて送ってきた人がいたの。

先日、芥川賞の選評が発表された際、「同性愛は最早凡庸なテーマである」とか「女性同士であるからという言い訳やエクスキューズが一切なく、果敢に攻めていく主人公の潔さと勇気に感服した」といったものを見て、とてもげんなりとしたのを覚えています。

私は女の子を、しかも初恋で好きになり、恋をしているという普遍的な感動と歓びのあまり、近しい人や親に言ってしまった事があります。その時は、優しかった人達が一気に掌を返しました。今思えばそういう反応を返されても、仕方ない部分はあると思えるのですが、当時は本当にショックでした。文学というものが担う役割上、そんな選評になってしまうのは仕方がないかもしれないけれど、凡庸な、とか言い訳、とか言われてしまうのは何か違うような気がして仕方ありませんでした。

(投稿を一部編集してご紹介しました)

朝子 選評原文は、「凡庸」ではなく「平凡」と書いていますけれど。

担当T 奥泉光さんの選評ですね。

朝子 琴峰さん、どう思った?

李琴峰(以下、琴峰) 実はそれについては、早稲田大学で陳雪という作家と対談したときに、ちゃんと反論したんですよ。

朝子 そうなの? 楽しくなってきたんだけど。

琴峰 「本当に新しくないのであれば、あえてそう言う必要もなくない?」と。同じようなことが台湾で既にあったんですよ。

『アンドレ・ジッドの冬』論争

琴峰 60年代に、林懐民という人が、『アンドレ・ジッドの冬』(原題:『安徳烈・紀徳的冬天』)という小説を発表したの。で、それに対して、有名評論家の葉石濤が、「周知の通り、同性愛というのは古くから、ギリシャ神話のナルキッソスの物語から存在する問題であり、我々にとっては珍しいものではない」(李琴峰訳)みたいなことを書いたのね。

その後、2017年、紀大偉という作家・研究者が、その分厚い著作『セクシュアルマイノリティ文学史』(原題:《同志文學史 台灣的發明》)の中でこの歴史を振り返り、こう述べています。

「『我々にとって同性愛は珍しいものではない』というのは、『西洋の芸術と文学を読む/受け入れる我々台湾人にとって、西洋の芸術と文学が表す同性愛は珍しいものではない』と解釈すべきである。つまり、台湾人は西洋を通してはじめて世界を見ることができたのである」(李琴峰訳)。

つまり、当時の台湾人にとって、同性愛について「分かったつもり」になって、「珍しいものではない」と述べても、結局のところそれは外国から輸入した知識や認識に過ぎず、決して本当の意味で理解していたわけではないし、本当の意味で身近な存在だったわけではないのです。

今の日本でも、同性愛が文学の題材になると、評論家たちはとかく「同性愛はもはや珍しい題材ではない」と言いたがるんだけれども、しかしそう言いたがる人ほど、本当は同性愛について浅薄な認識しか持っていないんじゃないかと私は思うんです。要は「珍しいものではない」と言うことで、「この点ではなく、他の点をちゃんと評価している俺には見識がある」と、そう言いたいんですよね。

朝子 ボッコボコに言い返してますね~。

琴峰 これは別に奥泉さんの評に対してだけでなく、一般論として言っているんですけどね。本当に珍しくないのであれば、敢えて「もはや珍しくない」と書く必要はないんじゃないですか。異性愛者の恋愛物語を、村上春樹とか、たくさん書いているけれども、「異性愛者の恋愛物語は珍しいものではない」なんて誰も書かないでしょう。

朝子 確かに、まだ、「同性愛はもはや平凡な題材である」という前書きが必要な時代背景であったということを、この年の芥川賞選評は、文学史上にとどめることになりますよね。

琴峰 まあ、宣伝Uさんが芥川賞選評をコピーしてくれましたので、当該箇所を読み上げますね。

 李琴峰氏の「五つ数えれば三日月が」は同性間の恋愛小説で、もちろん同性愛はいまやまったく平凡な題材であるが、作者は漢詩文をうまく使って、主人公の切ない恋情を中心に愛らしい作品に仕上げている。漢詩文に漂う清爽な言葉の表情が、地の文にも滲みだしていれば、もっと高い評価が得られたのではないだろうか。

—『文藝春秋』2019年9月号、芥川賞選評、328ページ

このように通しで読むと分かるように、奥泉さんのこの選評はむしろ私の作品に対して好意的なものですが、だからこそ「もちろん同性愛はいまやまったく平凡な題材であるが」という余計な一文が残念に思います。この文がなくても言いたいことが十分伝わるのにね。

それと、この選評はあくまでも文学の題材としての同性愛を語っているのであって、同性愛自体についての話ではないので、それで傷つく必要はないと思う。と、まきむぅの読者さんに言ってあげたいな。

朝子 うん。

一般読者の読む自由、評論家たちの書く責任

琴峰 そういえば、『Over』という雑誌知ってます?

朝子 ああ、はい。

琴峰 12月発売の『Over』第2号に私が記事を寄稿していてね、私の作品に対する的外れな評論をいくつか取り上げて、反論をするということをやります。

担当T 相手の実名は出しているんですか?

琴峰 はい。書評書いたんだから、もちろん文責は取るでしょう。

朝子 そういうことよね。そうやって実際の議論を巻き起こしていくのも文学作品の社会的役割の一つだと思う。『Over』ね、骨のある雑誌ですよね。

琴峰 いい雑誌だと思う。小説をどう読むのかは、本当に自由だと思うんですよ。例えば一般読者が私の作品を読んで、Twitterで感想を書いてもね、それが余程差別的なひどいものでない限り、私は反論したりしない。リツイートはするけど。

朝子 現代だな~(笑)

琴峰 でも、文芸評論家とか書評家と名乗りつつ書いたものに対しては、ひどいなと思ったら、反論するべきだと思う。

朝子 誌上をもってね。

琴峰 同性愛を題材にした小説はたくさんあるでしょう。けれど、同性愛というカテゴリに分類された人たちには、いろんな人がいるんですよ。

朝子 うん。超大事な発言、今の。

言葉が引いた線の中でも

琴峰 「同性愛者はみんな同じだ」なんてわけはないでしょ。その中の一人ひとりの生き方はもちろん違うわけなので、それを丁寧にすくい上げることも文学の役割なんじゃないかと思うんですよ。

朝子 文学には……言葉による芸術には、それができる。けれども人間は、言葉というものを道具に、世界をわかりやすく整理して安心しようともするんですよね。「この人はレズビアンである、ない」というように。

琴峰 本人にとってそれでいいこともあるし、言葉によって世界を切り分けることも時には必要。だけれども、その暴力性にも意識的でないといけない。

朝子 そうね。その、言葉が世界を切り分ける、って話でね、私、琴峰さんの作品にすごく好きなフレーズがあるの。音読していい?

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言葉がつなぐ、言葉のはざま—李琴峰×牧村朝子

李琴峰 /牧村朝子

芥川賞にノミネートされた『五つ数えれば三日月が』の著者・李琴峰さんと、cakesで「ハッピーエンドに殺されない」を連載中の牧村朝子さんとの対談が実現しました。台湾語・中国語・日本語の3つの言語を中心に、レズビアンカルチャーや、芥川賞選...もっと読む

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コメント

rero70 李琴峰さん「同性愛を題材に… https://t.co/44LeIfvQiU 約1ヶ月前 replyretweetfavorite

ssimtok 「同性愛は最早凡庸なテーマである」という評論に対して「本当に新しくないのであれば、あえてそう言う必要もなくない?」「同性愛はもはや珍しい題材ではないと言いたがる人ほど、本当は同性愛について浅薄な認識しか持っていないんじゃないか」 https://t.co/17v76uaOnf 約1ヶ月前 replyretweetfavorite

Li_Kotomi そういった枕詞は欺瞞以外の何物でもない。私はすでに対談など色々なところで批判してきた。いいかげん、それはマジョリティ目線からの極めて傲慢な言い分であることを自覚してほしい。 https://t.co/lW72R3uZz2 約1ヶ月前 replyretweetfavorite

saphir_ 肝心の記事へのリンクをはり忘れていた> 約2ヶ月前 replyretweetfavorite