いだてん』第46回「炎のランナー」〜誰にでも今はある

いよいよ1964年となり聖火リレーの準備は大詰め。岩田(松坂桃李)は最終走者として、原爆投下の日に広島で生まれた青年(井之脇 海)を提案するが、政府とアメリカに忖度する組織委員会で反対にあう。平和の祭典としてのオリンピックを理想とする田畑(阿部サダヲ)は、解任以来初めて組織委員会に乗り込む。外交官出身の平沢(星野 源)が思いついた秘策は…。



彼女たちの「今」

 オリンピック。表彰台。金メダル。
 これらは、青春がもたらしうる結果ではあるが、青春そのものではない。

田畑政治が久しぶりに大松のいる大阪にでかけてみると、主軸の河西がいない。「ウマは、馬小屋か?」気安く田畑が話しかけると、大松は珍しくフルネームを使う。「河西昌枝は昨夜、山梨へ帰りました。お父さんが危篤で」。もちろん、大松の脳裏には、河西の実家に訪れ、両親に「こいつを二年間、おれに貸して下さい」と言ったときのこと、そして父親に「昌枝の花嫁姿だけはどうしても見たい。それだけは、お願いします」と言われたときのことが、よぎっているにちがいない。

 そこに、山梨に帰っていたはずの河西が、ユニフォーム姿で現れる。 「おい、どないしたん? 何で帰ってきたんや? お父さんには?」 大松が問いただすと、河西は、会いました、と頭を下げる。 「『会いました』ってお前…『そばにおれ』言うたやろ、河西」。河西は答えるかわりに再び頭を下げると、呼び止めようとする大松を無視して、まっすぐにコートに入り、手首と首を軽くほぐす。真顔の安藤サクラだ。そして大松に催促するようにとんとんと二度、ジャンプの音。「お願いします!」

 身構える河西に大松は、叱咤と共にボールを投げる。

 帰れ@!「そばにおれ」いうたやろ!
 帰れ@! お父さんのそば@おれ!
 帰れ@山梨へ!  そばに@おれ!

 くどくて申し訳ないが、@マークは大松がボールを投げるタイミングである。
 「帰れ」「おれ」。動くことととどまることを交互に命じるかのような、理不尽なボール。しかし河西は、レシーブするばかりで答えない。いや、むしろレシーブが答えだ。

 河西@、返事せんか@!

 それでも返事をしない大松はついに「あだ名」を使う。

 ウマ!@ はい!
 ウマ!@ はい!
 ウマ!@ はい!

 彼女は「ウマ」にしか返事をしない。河西で返事をしたなら河西になってしまう。親と自分との絆を示す名前に返事をしたら、父親のことを思い出してしまう。なぜ「ウマ」にしか返事できなくなってしまったのか。なぜボールを投げながらでしか問えないのか。

 オリンピック@のせいや!
 オリンピック@のせいや!

 もはや大松のことばは、大松自身に投げつけられている。

 河西は、それまでのやりとりを断ち切るように床をばんと叩いてことばを投げる。「バレーボールは続けます!」そして、レシーブの構えを解いて言う。「でも…やめたくなったら…オリンピックの前日でもやめます!」

 河西のことばは、大松から、そして彼女自身からオリンピックを引き剥がした。そういえば、前回、河西はこう言ったのだった。「私たちは青春を犠牲になんかしていない! だって、これが私の青春だから! 今が、バレーボールが、青春だから!」。青春とは、オリンピックでも表彰台でも金メダルでもない、「今」なのだ。オリンピックしかない田畑政治は呆然と彼らを見守るしかない。森山未來の語りが告げる。

「…4日後、河西選手の父、栄一さんは、この世を去りました」。

広島県三次

 冒頭のシーンでちらと映った坂井義則の履歴書にある「広島県立三次高等学校卒業」という文字に、あ、と思った人はどれくらいいるだろう。

 わたしの母は、昭和20年8月、今の広島県三次市に居た。母がそれまで住んでいた広島県呉市は空襲警報が度重なったので、親戚筋を頼って疎開していたのである。三次なら、呉からも広島市からも遠く離れた山奥で、空襲の心配はまずなかった。8月6日の朝、一緒に疎開していた祖母は表に出ていて、南西の方で何か光ったのを見て腰を抜かしたが、それが何のことかはわからなかったらしい。事態が明らかになったのは、翌日、広島市から次々と逃げてくる人々のありさまを見てのことだった。

 三次と広島市の中心街との間は50数キロ、同じ県下とはいえ、つくばと東京、あるいは京都と大阪よりも離れており、原爆の直接的な影響はなかった。しかし、のちに三次から広島市に救援に向かった人達の中には、入市被爆してしまった人が数多くいた。

 坂井義則は8月6日、広島県三次市生まれ。三次は広島市と同一視するにはあまりに遠く、一方で、原爆の閃光が届き、広島市を目指して人々が救援へと出立した町だった。三次で生まれた人が「アトミック・ボーイ」「原爆っ子」と呼ばれることは、広島の地理に通じている人にとって、そしておそらくは坂井自身にとっても、大きな違和を感じさせる一方で全く否定するわけにもいかない、複雑な感情をもたらす事態だっただろう。

リーク

 1964年8月9日、坂井が候補に入っていることを知った朝日新聞の記者は、郷里の三次にいた坂井を訪れてインタビューし、10日、聖火リレー最終走者として「十九歳の坂井君/原爆の日、広島県生れの早大生」と報じた*1。記者はそのまま坂井を東京へと連れだし、朝の国立競技場に忍び込んで聖火台の前で写真を撮り、8月11日の記事に掲載した。田畑政治も、競技小委員会のメンバーとして次のような談話を10日の記事に寄せている。「東京オリンピックの最高の基調は、原爆のない世界平和の実現ということだ。現在の政治的な原水爆禁止運動とはまったく離れて、スポーツを通じた純粋な平和希求こそ、東京オリンピックの大目標なのだから、広島県出身にそういう青年がいるならばたいへん結構なことだ」*2。

 田畑が事務総長だった時代から、最終ランナーは事務総長に決定を一任することが決まっていた。ところが、時の事務総長、与謝野秀は、寝床で新聞を開くまで、坂井の名前すらきいたことがなかった。

 「坂井君という名前を聞くのは私にはその時がはじめてだったのである。記事によれば坂井君は原爆が広島に投ぜられた日に広島県のどこかの町で生まれたのだそうで、早大の中距離走者である。原爆を憎むこと人後に落ちない私も、オリンピックに原爆を持ち出したい気持ちのひととはまた意見が少し違うのでこの点を強調しているのに、いやな気持ちがしたのは正直なところであった(中略)。まだ組織委員会では決定どころか、名前も出ていないものが、既成事実を押しつけてくるのは絶対に困るという意見が、直後の競技小委員会でも出て、報道陣の競争に巻き込まれた坂井君の軽率さを攻撃する声と、新聞社に対する取材競争の行き過ぎ批判が厳しかった」*3。

 おそらくは坂井本人にもこうした「攻撃する声」は間接的に届いたことだろう。しかし、19歳の青年にしてみれば、オリンピックの選考会にもれて失意のうちにあるときに、いきなり最終ランナー内定と知らされ、東京につれてこられ言われるがままに写真を撮影され、報道に振り回された形だった。結局、複数の候補者がしばらく練習を重ねた上で、コーチから適任者を推薦してもらう形を取ることになり、その結果改めて、坂井義則が聖火ランナーとして決定した。8月18日のことだった。

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コメント

kaerusan 昨年の大河ドラマ「いだてん」で描かれた、広島県三次で生まれた聖火ランナーの話。 https://t.co/7bCHefk0bM 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

4im8hJV7aYKpppY https://t.co/qbAFAXEZtt 9ヶ月前 replyretweetfavorite

otmovie20503 "敗れること、叶わぬこともまた、「青春」の帰結の一つなのだ。そして老いたいだてんにも、「今」はあるはずだ。" 9ヶ月前 replyretweetfavorite

koroku https://t.co/3tL9xYqAHN 9ヶ月前 replyretweetfavorite