現代の哲学者は、何もプラトンやアリストテレス、カントといった、過去の哲学者による古典的著作の探究ばかりしているのではない。少なからぬ現代の哲学者は、バイオテクノロジーやAIといった新技術と社会とのあるべき関係について問い続け、議論を重ねている。
倫理学理論をベースに現代のさまざまな倫理問題について検討する哲学の一分野は、「応用倫理学」と呼ばれる。この応用倫理学には、生命倫理や医療倫理、環境倫理のほか、企業倫理、科学技術倫理、情報倫理、ロボット倫理といった多種多様な研究対象がある。中でも、バイオテクノロジーの進歩に伴う倫理問題への考察は、生命倫理の重要なミッションの一つだ。
哲学者が、脳死臓器移植や人工生殖技術、遺伝子治療、安楽死といった生命倫理の諸問題にコミットし、論争に加わったのは1960年代の後半からである。哲学者に求められたのは、特定の宗教を背景としない立場で、新しい医療技術やバイオテクノロジーについて議論することであった。米英やドイツでは、体外受精や臓器移植、クローン技術、万能細胞(ヒトES細胞)といったブレークスルーが起きるたびに、それがもたらす問題を議論する委員会が政府によって設置され報告書にまとめられてきた。こういった委員会でも、哲学者が重要な役割を果たしてきたのである。
70年ごろに成立した生命倫理学において、特に重要な役割を果たしたのは、功利主義者であるピーター・シンガーや、多くの卓越した業績を残したH・T・エンゲルハートJr.、さらに「医療倫理の四原則(自律、無危害、利益促進、正義)」を打ち立てたトム・ビーチャムとジェームス・チルドレスなどだ。とりわけビーチャムは、それまでの倫理学理論を応用できる形でまとめ直し、企業倫理の分野などにも「使える」形にしたという点で注目される。
こうした哲学的思考と生命倫理との関連について、直近に起きた“事件”を例に挙げて紹介しよう。
ゲノム編集ベビーが世界に投げ掛けた
生命倫理の問題
昨年11月、中国発のバイオテクノロジーをめぐるニュースが、世界に衝撃を与えた。同国の研究者がヒトの受精卵にゲノム編集技術を用いて、世界初のゲノム編集ベビーとなる双子の女児を誕生させたと発表したのだ。