哲人の語りはじめた「課題の分離」は、あまりに衝撃的な内容だった。たしかに、すべての悩みは対人関係にあると考えたとき、課題の分離は有用だ。この視点を持つだけで、世界はかなりシンプルになるだろう。しかし、そこには一滴の血も通っていない。人としての温もりが、いっさい感じられない。こんな哲学など受け入れてなるものか! 青年は椅子から立ち上がり、大きな声で訴えた。
承認欲求は不自由を強いる
青年 わたしはね、昔から不満だったんですよ! 世間一般の大人たちは、若者に向かって「自分の好きなことをやれ」といいます。いかにも理解者のような、若者の味方のような笑顔を浮かべてね。しかしこれは、若者が赤の他人で、なんら責任を問われない関係だからこそ出てくる、口先の言葉です!
一方、親や教師が「あの学校に入りなさい」とか「安定した職業を探しなさい」と具体的で、おもしろくない指示をするのは、単なる介入ではありません。むしろ、責任を全うしようとしているのです。自分にとって近しい存在であり、相手の将来を真剣に考えているからこそ、「好きなことをやれ」などと無責任な言葉が出てこない!
きっと先生も理解者のような顔をして、わたしに「自分の好きなことをやりなさい」とおっしゃるのでしょう。ですが、わたしはそんな他人の言葉は信じません! それは肩についた毛虫を払いのけるような、無責任きわまりない言葉だ! たとえ世間がその毛虫を踏みつぶしたところで、先生は涼しい顔で「わたしの課題ではない」と立ち去っていくのでしょう! なにが課題の分離だ、この人でなしめ!
哲人 ふっふっふ。穏やかではありませんね。要するにあなたは、ある程度は介入してほしい、自分の道を他人に決めてほしい、というわけですか?