坂下門外の変への関与を疑われた中野は、幕府の捕吏に捕まって獄死した。変について中野は知っていたようだが、関与は全くしていなかった。中野は獄死の直前、時論『固本盛国策(こほんせいこくさく)』を佐賀にいる大木喬任に送った。おそらく牢に面会に来た佐賀藩士に託したのだろう。この著作には誰よりも早い倒幕論が展開され、後に書かれる大木や江藤の著作中でも引用されることになる。
「八太郎、あれを取ってくれ」
空閑が床の間に置かれた脇差を指差す。
「分かった」と言いつつ大隈が渡すと、空閑は震える手で、刀袋からその刀を取り出した。
「この刀は先祖伝来の名刀で、わしが実家から養家の空閑家に入る時、父上がくれたものだ」
「ああ、知っている。何度も聞いた話だ」
その金の象嵌が施された脇差は「牛切丸」という銘で、空閑が養子入りする際、父の山嶺真武から下賜されたものだった。
「あらためて見ると美しいな」
「ああ、そうだな」
空閑がうっとりとした顔で、「牛切丸」を見つめる。
「かつてわしは『四柱神』の話をした」
「ああ、覚えている」
空閑は「日本を維持する四柱神」として、大隈、島義勇、自分、そして諸岡廉吉の名を挙げていた。
「若気の至りだった」
「何を言う。共に『四柱神』になろうではないか」
「ああ、そうありたいが、わしの道はここまでだ。これを——」
空閑が「牛切丸」を示す。
「そなたにやる。だから、わしの分もこの国に尽くしてくれ」
「何だと——。これほどの名刀をもらうわけにはいかん。もしも——」
大隈が言葉に詰まりながらも言う。
「そなたが死したら、実家の兄上に返すよう取り計らう」
「いや、兄上は剣術師範にすぎぬ男だ。この名刀を持っていても役には立たぬ。それよりも、この刀はそなたが持つべきだ。心が挫けそうになった時や『もうだめだ』と思った時に、この刀を思い出せ。この刀身を見れば、必ず英気が漲る」
大隈に言葉はなかった。
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