神陽の死をさかのぼること四カ月前の文久二年四月、薩摩藩主の父・島津久光は藩兵一千を率いて上洛を果たし、尊攘派藩士や浪士たちを取り締まり(寺田屋事件)、公武合体派の主導権を握った。さらに勅使を連れて江戸に下り、幕政改革を促した上、一橋慶喜の将軍後見職就任と松平春嶽の政事総裁職就任を幕府に認めさせた。
しかし久光の一連の行動は、幕政改革と幕閣人事に終始し、神陽の期待する討幕の挙兵とはほど遠いものだった。それが幕藩体制下の諸藩主の限界であり、佐賀藩を率いる閑叟も、それは変わらない。
江戸で多大な成果を挙げたことに気をよくし、意気揚々と江戸を後にした久光だったが、その帰途に災難が待ち受けていた。生麦事件である。
武蔵国の生麦村付近で、久光の行列の中に馬を乗りいれた英国人たちに怒った藩士数名が、英国人一名を無礼討ちにしたのだ。これが、翌文久三年七月の薩英戦争へとつながっていく。攘夷を断行した長州藩も下関戦争へと向かっていくが、薩摩藩も同様の道をたどることになる。
神陽が没した翌月、再び大隈の意欲を挫くようなことが起こった。
その広い額に、冷えた水に浸した手巾を掛けてやると、空閑が薄く目を開けた。
「次郎八、具合はどうだ」
「ああ、八太郎か。よくはない。咳が止まらず体がだるい。この腕を——」
空閑が剣術で鍛えた太い腕を持ち上げようとする。だがそれは、ほんの一寸(約三センチメートル)も持ち上がったかと思うと、力なく蒲団の上に落ちた。
空閑がため息をつく。
「体もだるくて、今日は厠にも行けぬ。それで医家はなんと申していた。母上に聞いても教えてくれないのだ」
空閑は自らの病名を知りたがった。
昨日、医家が往診に来た時、高熱で空閑の意識は混濁していた。今は医家の処方した熱冷ましを飲んだので、小康状態を保っているが、いつ何時、意識を失うか分からない病状だという。
大隈は迷ったが、このまま空閑が病名も知らずに旅立ってしまっては可哀想だと思い、告げることにした。
「母上から聞いたのだが、医家は麻疹だと言っていた」
「やはりそうか。だったらそなたに感染するので、あっちへ行け」
「いや、わしは童子の頃やったので、耐性(免疫)ができている」
麻疹は一度発症すると、一生免疫が持続する。
「それはよかった。先ほど佐野殿と姉上が見舞いに来てくれたのだが、襖越しに話をした」
佐野とは栄寿(後の常民)のことで、空閑の姉の駒子は栄寿に嫁いでいた。
「そうだったのか。そなたの顔も見られずか」
「ああ、頑として襖を開けさせなかったからな。姉上は——」
空閑が寂しげに笑う。
「姉上は泣きながら『早く元気になって、また喧嘩をしましょう』だと。姉上とは、よく喧嘩をしたからな」
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