六
安政七年(一八六〇)に井伊直弼が桜田門外で暗殺された後、幕府の実権を握ったのは老中の安藤信正だった。井伊の強硬策が裏目に出たと判断した安藤は朝廷との融和を目指し、将軍家茂と皇宮和宮の婚姻を進めた。だが、こうした公武合体策は「朝廷をないがしろにするもの」として尊攘派志士らの不興を買い、文久二年(一八六二)一月、安藤は水戸藩尊攘派に襲撃される。坂下門外の変である。
この時、安藤は一命を取り留めるが、背中に傷を負ったため、「武士にあるまじきこと」として老中を罷免させられた。
直接の下手人である水戸藩尊攘派浪士六人は、その場で斬殺されたが、関係者が次々と捕縛された。というのもこの変には著名な儒学者の大橋訥庵が関係しており、訥庵の弟子をはじめとした多くの者たちが入牢させられたのだ。
その中には、江戸昌平黌に留学中の中野方蔵もいた。中野は訥庵に弟子入りし、尊皇攘夷論者となっていたからだ。
これに佐賀藩首脳部は動揺した。これまでは政治活動に関与していても、佐賀藩士から政治犯を出したことはなかったからだ。しかし真偽は定かでなく、取り調べの結果を待つという形になった。江戸藩邸と国元の間を頻繁に使者が往来し、藩庁は対応に苦慮していた。
中野は義祭同盟の中心人物の一人なので、枝吉神陽をはじめとした義祭同盟の面々は、何としても救い出そうということで一致した。
中野の親友の江藤が中心になり、藩庁に中野の助命嘆願と佐賀召還を申し入れるよう働き掛けたが、いまだ幕威を恐れる藩庁は、何の働き掛けもしない。
その後、中野が伝馬町の獄舎に入れられたと聞いた江藤らは焦った。というのも伝馬町の獄舎の衛生状態は劣悪で、半年から一年で病死すると伝え聞いていたからだ。
そして最悪の事態を迎える。
度重なる嘆願に藩庁がようやく動き出そうとした六月、中野の死が伝えられた。これまでも政治犯として幕府に捕まり獄死させられた者は多いが、佐賀藩士としては初めてで、佐賀家中に衝撃が走った。
大隈の回顧談によると、「(中野は)余の先輩中において実に第一流の人士」であり、「学問あり、見識あり、資性敏活にして儕輩(仲間)に数歩を抜く」といった人物だったという。
二十八歳という早すぎる死だった。
むろん義祭同盟の面々の怒りと嘆きは並大抵ではなく、とくに唯一の理解者を殺された江藤は自暴自棄になっていた。
江藤の家は、以前に来た時にも増して汚れていた。何かが腐ったような匂いが立ち込め、柱の根元はカビで白く変色している。どうやら白蟻にもやられているらしく、大隈が框に腰掛けようとすると、多数の小さな影が穴に逃げ込んでいくのが見えた。
「入ります!」と大隈が言うと、奥から「おう、入れ」という声が返ってきた。
塵の積もった廊下を進むと、江藤は長くなった髪をかきむしりながら、机に向かっていた。
「用件は分かっている。何も言うな」
「そんなことを言われても、私は神陽先生から仰せつかった使者です。何も言わずに帰るわけにはいきません」
「尤もだ。何を言うかは分かっているが、口上を聞こう」
「脱藩すると聞きました。義祭同盟の総意として翻意することを促します」
「口上はそれだけだな。終わったら帰れ」
江藤が筆を振って追い払うような仕草をしたので、大隈は鼻白んだ。
「お待ち下さい。大恩ある神陽先生に対して、伝言もないのですか」
「恩は恩。志は志だ。男子一生において、師への大恩と世話になった傍輩への義理よりも大切なのが志を貫くことだ。神陽先生なら分かって下さるに違いない」
「分かりました。先生にはそう伝えます」
「そうしろ。分かったら帰れ」
大隈が正座から胡坐に足を組み直す。
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