それでは平野先生、お願いします」|意気軒高(五) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。

 長崎にあっても大隈は動くことをやめない。英語を学び、佐賀藩の交易を活発化させることが当面の目的だが、何をするにしても先立つものは金だ。どのような事態が起こっても「金さえあれば乗り切れる」というのが、大隈の持論だった。

 大隈は次々と藩の富国策について提案していく。

 まず藩の代品方を増員し、長崎と大坂に商館を設けて諸外国との貿易を盛んにすること、さらに神戸が開港するので、今のうちに海に近い土地を買い占めるべしと唱え、そのために隠居して閑叟と号した直正が藩主時代に貯め込んだ四十万両を使うべしと主張した。

 文久年間の一両は現代価値に直すと一万六千円前後なので、実に六十四億円に上る。それを一藩士の大隈が供出しろというのだ。

 また北風家が蝦夷地にも行き来しているところに目をつけ、蝦夷地随一の豪商・高田屋嘉兵衛を巻き込み、蝦夷地へも進出しようとした。

 蝦夷地進出策は大隈の手を離れた後に成功し、釧路東海岸一帯の払い下げてもらった佐賀藩は、地元民に昆布を集めさせ、その一方、箱館で佐賀の特産品を販売することで巨利を得た。

 大隈は事業を大きくすべく、佐賀藩の出入り商人たちにも声を掛け、来る者は拒まずの姿勢で参画を促した。そのため佐賀藩御用達商人の大半が蝦夷地交易で大きな利益を出し、中には本拠を箱館に移した商人もいたという。

 大隈が商人たちを巻き込んだのには、明確な理由があった。交易で得た利益の何割かを商人たちに寄付させ、英語学校設立の資金にしようとしたのだ。大隈は商人たちから「接待する」と言われると、「その分を寄付しろ」と言って商人たちを驚かせた。

 また外国船が入ると、配下を走らせ、高価な書物を手あたり次第買いあさった。とくに『英蘭対訳書』『英蘭対字書』『和漢字彙』といった辞書類を優先的に購入し、佐賀の蘭学寮に送り続けた。

 さらに佐賀に帰ると、閑叟から領内の鉱脈を探査するよう命じられた小出千之助の手伝いに奔走した。小出、大隈、久米の三人は領内の山々を跋渉し、金・銅・鉄の鉱脈を発見した。しかしどれも痩せた鉱脈だったので事業化には至らなかった。

 かくして大隈は長崎で外国商人と交渉し、佐賀に戻って鉱脈を探し、兵庫に行って諸外国の行使らに商談の直談判をしていた。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への...もっと読む

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