イラスト:澁谷玲子
「おっさんはアドバイスするな」というけれど
僕調べで「おっさん」への批判がもっとも噴出しているSNSはやはり何と言ってもツイッターだが、とあるバズったツイートがタイムラインに流れてきて、たいそう複雑な気持ちになったことがあった。そのまま書かないけれども、要約するとこうだ。
「40歳を過ぎたおっさんは若者にアドバイスするな」。
うーん、たしかに。そうね……そうかもね。うーん、いやあ、でもなあ……。
いや、言いたいことはよくわかる。40歳というのはあくまで目安であって、おそらくツイート主にとっての「おっさん」の境界線なのだろう。で、たしかに多くの若者からすれば、往々にして上から目線だったり、ピントがありえないぐらい外れていたり、「それ結局あなたの思い出語り(『俺がお前の年のころは……』)ですよね?」だったりするおっさんのアドバイスほどウザいものはない。そのツイート主のさらなる注釈によれば、「求められるまでアドバイスするな」というのも、重要なポイントのようだった。なるほどね。
僕はたとえば、飲みの席なんかで年上の男性の——「40歳を過ぎたおっさん」の持論や武勇伝なんかを聞くのも、そのひとの生き方やポリシーの一端が見えるようでけっこう好きなのだけど、それはまあかなり特殊なタイプなんだろうと自分でも思う。それにかなり長い期間フリーランスでフワフワやっている僕は、組織のガチガチの上下関係に何だかんだ投げこまれずに済んでいることもあるかもしれない。というようなことを、営業をやっている友人に話すと「いや、お前は周りのひとに恵まれてるんだよ」と言われた。そいつの目は笑っていなかった。……なんかごめん。
おっさんのアドバイスがウザいのは、ずいぶん長い間、年長の男性の発言はそれが多少理不尽であっても的外れであってもありがたく聞き入れなければならないとされてきたからだろう。だから話者はそこにどれくらい中身があるか気にしなくていい。家庭でも組織でも、家父長制がさりげなく、しかし確実に幅をきかせてきたのはこういう部分だ。
だが風向きは変わってきた。おっさんがおっさんでいるだけで話を聞いてもらえる時代は過ぎようとしている。彼らがあらゆる部分で世間的な感覚からズレてきていることは、この連載でも何度も書いてきた。だから、それこそSNSなんかでおっさんが糾弾されているのを見て内省する中年男性も増えただろうし、現実的にその場で言い返せなくても内心小馬鹿にしながらスルーしている若い世代もたくさんいるに違いない。
ジェンダー関連で言えば、女性のほうがよく知っている事象に対して、聞いてもないのになぜか男性が(偉そうに)説明する現象に「マンスプレイニング」と名前がつけられ、その言葉が多くの共感とともに広がったのは象徴的だ。おっさんのアドバイスは「ありがたく聞かなければならないもの」から「たいていの場合、ただウザい(から、真剣に聞かなくてもいい)もの」へと共通理解が進みつつある。
だけど「アドバイスするな」は、僕がおっさん好きであることを抜きにしてもちょっと寂しい。たとえば経験の差がある年上の人間が何か気づいたとき、助言したくなるのは自然なことだし、それがまったく役に立たないとは限らない。軋轢を避けるためとはいえ、コミュニケーションにおいてはすごく後ろ向きな解決策だと思うのだ。
そもそも育ってきた時代や環境が違うのだから、価値観が異なるのは当然だ。受け手からすると、理解できなかったり的外れだったりすることもあるだろう。それでも伝えたいことがあったとして、「ウザいこと」はアドバイスする側・される側双方にとって何よりも避けなければならないことなのだろうか。
価値観の異なるふたつの世代を描いた物語
だけど、僕は最高にウザくて最高にチャーミングなおっさんを知っている。トニ・エルドマン氏である。
誰? って感じだろうけど、2016年のドイツ映画『ありがとう、トニ・エルドマン』に登場する人物だ。微妙な関係にある父娘の交流を描いたコメディで、カンヌ国際映画祭で無冠に終わると大ブーイングが起きたほど世界的に評価された作品である。個人的にも2017年に日本で公開された作品のなかではベストな一本だ。そこでは、おっさんが「ウザいこと」自体がなにか愛おしいものとして立ち上がっている。
主人公父娘の父ヴィンフリートは引退した音楽教師で、離婚したのち愛犬とつましい生活を送っている初老の男性。映画が始まってすぐ、宅配便が届いたときに実在しない「双子の弟」に変装して現れるシーンが用意されているが、つまりよくわからないジョークやおふざけが大好きな、周りにいたらまあまあ面倒くさいおじさんだ。
一方の娘イネスは30代なかばの仕事人間で、グローバル企業でコンサルタントを務めている。家族の集まりでも、親戚と話すよりも仕事の電話をしている振りをしているほうが楽に感じる性格だということが序盤で描写される。
つまりふたりは、人生に対する価値観が違う。「稼ぐ」ことを重視していなかったため、結果的にヴィンフリートは孤独な老後を送っているが、あまりにも仕事に身を捧げる娘の生き方を内心で心配している。
あるとき愛犬が死んでしまい、最後の教え子も見送って、寂しかったのかヴィンフリートはひょっこり娘が働くルーマニアのブカレストにやって来る。しかも彼女の職場に。仕方なく父を仕事関係の集まりに連れていくが、当然のことながら彼は大口の取引が交渉されるビジネスの場に馴染まない。そして、客として訪れたマッサージ店のスタッフに傲慢に振る舞ったり、取引先の顧客にわかりやすく媚を売ったりする娘に対して、「お前は人間か?」と口走ってしまう。当然イネスはいい気がしない。「じゃあパパにとって幸せって何?」。父は答えられない。
『ありがとう、トニ・エルドマン』はコメディ映画だが、じつは現代社会を見事に風刺しているとして評価された作品である。イネスが働いているグローバル企業は、EU加盟国のなかでも経済的な立場が低いルーマニアに対して搾取的なビジネスをおこなっている。そこでコンサルタントとして働くイネスは「汚れ役」として、効率化のために現地の労働者を大量に解雇せねばならない。彼女が「人間的な」心を失っているのは、無意識に罪悪感から自分を守るためでもあるだろう。そして、「人間的な」自由を求めて生きてきた世代の父はそれに対して的確な言葉が見つからない。
仮に「もっといい人生を送ってほしい」という父からの率直な想いを告げたとして、それは娘からは求められていないアドバイスである。それに時代が違うから、かつてと同じような信念で生きられるわけでもない。もちろん、父はそのことを痛いほどわかっている。だけど娘を愛しているからこそ心配してしまう。ではいったい、どうすればいいのだろう……これは非常に現代的な問題である。
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