次郎長は何を手に戻ってきたか。次郎長が手にしていたのは行厨(こうちゅう)すなわち弁当箱であった。
次郎長は弁当箱を開いた。飯とそしてわずかな菜が入っていた。次郎長がこれを持って池の畔に佇むと、なぜ訣るのだろうか、金魚が、「めし、くれえええっ」と絶叫しているみたいな感じで集まってきた。
次郎長はこれを惜しげもなく池中に投じた。そうしたところ。
金魚は大喜び、夢中でこれを食し始めた。
夢中で食っているから人間に対する警戒心が疎かになる。初めのうち金魚の中には、「人間、こわいー」という気持ちと「飯、うまいー」という気持ちが相半ばしてあったが、夢中で食べるうちに、「飯、うまいー」で頭がいっぱいになって、「こわいー」という気持ちを忘れてしまったのである。
ゆえに裾を捲って池に入った次郎長は空になった弁当箱でわけもなくこれを掬うことができた。
〽俺は池の、金魚取りおじさん、
俺は池の、金魚取りおじさん、
行厨、使って、仕事する。
わっしゅび、しゅびどぅわっわっ。
わっしゅび、しゅびどぅわっわっ。
次郎長は上機嫌、そんなような内容の、自作の歌を歌いながら教場の方へ歩いて行った。
なぜ次郎長がこんなアホーなことをしたのか。それは福太郎が金魚が欲しい、と言ったからだった。だから次郎長はすぐにでも福太郎にこの成果を見せたかった。
しかしいまは授業中、周囲の目もあるから午休みに物陰に呼び出してそっと見せよう。
次郎長はそのように考えて、これを蔵して、なに食わぬ顔で堂に戻って、子宣わく。炒飯はうまい。と出鱈目を暗唱するなどしていた。
そうこうするうちに午になり、学童は銘々持参の弁当を開いて食し始めた。行儀よく食べる者もあれば、朋輩とふざけ散らし、穢らしく食べる者もあった。家の躾によって態度が違ったのである。けれどもやはり新興の商人も多く、人気の荒い港町だからだろうか、ふざけちらす悪童が殆どであった。
普段は次郎長も彼らと同じく暴れたりふざけたりしているのだが、その日は違った。なぜなら次郎長には食べる飯がなかったからである。
次郎長は普段の自分を棚に上げ、
「なんてぇざまだ」
と歎息した。そしてそっと福太郎の方を見た。福太郎は教場の隅でひとり行儀よく食していた。次郎長はその福太郎のところにすぐにでも行って行厨のなかの金魚を見せたかったが、あんなに行儀よく食べているところ邪魔をしたらまずい。食べ終わってから渡そう。と思った。
さらには、そのときなんと言ったらよいだろうか、とも思った。
「おめぇが欲しがっていた金魚、おいらが捕ってやったぜ」
とそう言えばいいのだろうか。
そう思ったとき、次郎長は全身が、かあっ、と熱くなるのを感じ、直ちに、「無理っ」と思った。
「無理、無理。とてもじゃねぇが、おいら、気がのぼせて言えねぇ」
そう思った次郎長は、だったら男らしく無言。詳しいことはなにも言わないで、「ほらよ」とだけ言って渡せばいいのではないか、と考えた。
しかしそうすると、なんのことかわからず、「いらないよ」と言われるかも知れない。じゃあ、どうすればいいのか。思いは千々に乱れ、もうどうしたらよいのかわからなくなった次郎長は行厨を机の下にしまい、教場を出て、堂の北っ側の、だれも来ない日の当たらないところへ向かった。
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