十二月のある夜、私はニューメキシコ州のサンタ・フェで、知り合って間もない若い映画監督の誕生パーティーに出席していた。食べ物の並ぶテーブルのそばに立ち、私は会ったばかりの三十代前半の男性と三十分ほど話した。彼がまじめに詩を書いていることがわかったので、私も処女作を出す前は詩人だったと告げた。私たちは互いに冗談を言い合いながら、大いに楽しんでいた。
とつぜん、彼が戸惑った表情で私に聞いた。
「ところで、なにをお書きになったんですか?」
「本を何冊か。いちばん知られているのは『書けるひとになる!』かしら」と言うと、「嘘でしょう! あの著者はとっくに亡くなっているものと思っていました」と言って彼は大きく目を見開いた。私がまばたきもせず「ちがうのよ。ちゃんと生きてる。まだしぶとくペンを走らせているわよ」と応えたところで、私たちは爆笑した。彼にそれ以上説明することはなかった。彼は私の本を高校で読んでいたけれど、当時読んだ本の著者は、男であれ女であれみな故人だったにちがいない。中学、高校で勉強した本の著者がいま生きているはずがない。
本書が一九八六年に出版された当初、私は講演で「これが五〇年代に出ていたら、まったく売れなかったでしょう」とよく言ったものだった。しかし幸いにもこの本が出たころのアメリカは、自己表現をしたい人たちであふれていた。書くことに関しては人はみな平等だ。地域、階級、性、人種のちがいは問われない。私にファンレターをくれる人もさまざまだ。フロリダの保険会社の副社長、ネブラスカの工場やミズーリの石切場で働く人たち、テキサスの囚人、弁護士、医者、同性愛者の権利を求めている活動家、主婦、司書、教師、僧侶、政治家。この本が出た直後、書くことについての大革命が起こり、本屋には物書きのためのコーナーが続出した。
そのころある生徒が私にこんなことを言った。
「わかりました。書くことって新しい宗教なんですね」
「でも、どうして? なぜみんなが文章を書きたがっているんでしょう?」
アメリカを代表するような名小説を誰もが書きたがっているとは、私には思えない。でも誰にだって自分の話を聞いてほしい、自分がどう考え、感じ、なにを見てきたかを死ぬ前に表現したいという夢がある。書くことは自分を知り、自分と仲よくなるための道なのだ。
考えてみれば、アリは文章を書かない、木もしかり。純血の馬や大鹿、飼い猫、芝生や石も……。書くことは人間固有の行為で、ヒトの遺伝子だけに組み込まれたものなのかもしれない。譲渡不可能な国民の権利として独立宣言に追加すべきではないか。
「生命、自由、幸福の追求——そして書くこと」
書くことにお金はかからない。ペンと紙(機械に強い人はもちろんコンピュータ)、そして頭脳がありさえすればいい。あなたは、自分の知覚のどの未開部分を開拓できるだろう? 人生で月を意識しはじめたのはどの秋? 完璧なブルーベリーを採ったのはいつ? 本格的な自転車を手に入れるまでにどれくらいの時間がかかった? あなたの守護天使は誰? いまなにを考えている? あるいは考えていない? いまなにを見ている? あるいは見ていない? 書くことはあなたに自信を与え、目覚めさせてくれる。
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