陰間という仕事と、江戸のリアリティ
溝口彰子(以下、溝口) 『百と卍』1巻の、百(もも)の陰間時代の描写では、結構辛いことも多く、ハードな場面もあります。扉絵も、まるでSMのように百が吊り下げられている絵があったり。でも、全体を通して読むと、BLかつエンタテインメントとして楽しく読むことができる。なぜだろうと読み直してみて、3つ理由があると気づきました。
ひとつめは、作品の冒頭で陰間あがりの百が、卍(まんじ)さんと仲良く楽しく暮らしている様子が描かれていること。ハードな時代はその後に時を遡って描かれているため、読者は百が「昔は辛かったけど、今は幸せ」であることを知っています。
ふたつめは、百の実の兄であり、「まわし」でもある醒(さむる)との関係性。「まわし」とは、陰間を商品として客に出す前に教育する役割です。醒が百を仕込む場面では、百が兄のことを本当に慕っている様子が描かれていますよね。兄弟愛という萌え要素と、まわしと陰間の関係性にある萌え要素が、うまくクロスしていると思いました。
『百と卍』より ©紗久楽さわ/祥伝社 on BLUE comics
3つめは、百が陰間ゆえに辛い目に遭っていることと同時に、あくまで仕事でやっているわけで、それを特段大きな不幸だと思っていないことも描かれているところです。年季が明けて、百が見世(みせ)から出ていくときに、むしろ醒さんのほうがそこから出ていくことができず、生涯とらわれるであろうことが暗示されています。
雲田はるこ(以下、雲田) 醒さんのことを考えると、切ないですね。
紗久楽さわ(以下、紗久楽) 百ではなく、彼のほうこそ、格子のなかにずっといるんです。
溝口 百本人も自分の境遇や仕事に納得しているというか、その「仕事だから」の感じが出せるのは、紗久楽さんが当時のことを色々と研究なさっているからこそではないかと思ったんですよね。
紗久楽 江戸時代は個人が中心の時代ではなく、家や職業が中心の時代なんです。醒さんは、この店の手代になり、亭主になったからには、ほかに仕事を探すということはあまり考えません。その家をどうやって守り、子孫につなぎ大きくするかが一番大事。だから、職業がどうとかよりは、そこを譲り受け与えられたから、それを全うしなければ……という感覚です。
作中で説明はしていませんが、百さんがお仕事で見世に来たときって、お坊ちゃんでない限り、大抵の子どもが仕事場や職人に奉公に出る年齢なんです。なので、百さんもお仕事として自分が奉公に上がったこと自体は自然に思っている。日本の探偵小説の走りといわれる岡本綺堂の『半七捕物帳』では、作品の序盤に「陰間あがりのぼてふり」(※)が出てきます。
※ ぼてふり:ざるや木箱などを両側に取り付けた天秤棒を振り担いで食品などを売り歩く小売の商人。
作者の岡本綺堂は明治初期の生まれで、江戸の空気をふんだんに盛り込みつつこれを描いているのですが、このシーンがすごく印象的なんです。主人公の半七は岡っ引、いわゆる探偵で、ぼてふりを探して会いに行く。すると彼を知る街の人は、「ああ、あいつ、陰間あがりなんだよ」と半七に言って、それを受けた半七も単に「へえ」って感じなんですよ。とくに驚いたり、そこを掘り下げたりすることがなかったんです。
雲田 なるほど、「陰間あがりのその後」を書いている、というのが新鮮に感じますね。
溝口 半七や街の人の反応を見ると、陰間も江戸時代に数ある職業のうちのひとつ、という感覚が、本人にもまわりの人にもあったんでしょうね。
月代(さかやき)に萌えられるって、実はスゴイこと
溝口 それと、あまりにも当然すぎて言い忘れたんですけど、「月代(さかやき)キャラのBL」を成功させたのは、紗久楽さんが初めてですよね。
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