ここまで、人は——とりわけ日本に住んでいる人は——なぜ「社会運動」が苦手かということを明らかにしてきました。
こう考えるとまるで日本人だけが特別「わがまま」嫌いのように見えますが(もちろんそれはそうなのですが)、海外にも社会運動なんてやるだけ損で、むしろやっている人のほうが珍しいんだ、と論じる人もいます。マンサー・オルソンという経済学者が「フリーライダー問題」の議論を行っています(『集合行為論』、1996年)。
廊下が寒いにせよ、購買のパンの種類が少ないにせよ、だれかが実際に「わがまま」を言って、学校が動いてくれたとする。するとみんなが暖かい廊下を歩けて、購買のパンも買えるようになる。こうなると、実際に「わがまま」を言った人のほうが学校との交渉に時間や体力を使ったわりに、「わがまま」を言わなかった人と同じ利益しか得られない。だから言わないほうが得だ、ということになる。これがフリーライダー問題です。
そのためオルソン以降の研究者たちは「なぜ、それでも『わがまま』を言う人がいるのか?」という問題に、強い関心を持つようになりました。こんなに損するにもかかわらず「わがまま」を言うということは、何か「わがまま」を主張するポジティブな理由があるはずだ、と彼らは考えたわけですね。
では、それでも社会運動をやる人がいる、「わがまま」を言う人がいるのはなぜで、そこにはどういった意味や意義があるのでしょうか。
わがままはきっかけづくり
ダメ押しでもうひとつよくある「わがまま」批判をしてみます。「社会運動、やっても意味ないじゃん。やっても社会変わんないじゃん」。こうした批判もよく見られるものです。
社会運動について、これまで紹介したような感想(批判?)をいただく場合、そこで想定されている社会運動の意義は「国や自治体レベルで、あるいは制度レベルでの何らかの根本的な改善がみられること」であることが多いように思えます。具体的に、法律が変わるとか、賃金が上がるとか、そういった社会の変化が求められている。
でも一概に「社会の変化」といってもけっこう難しい。たとえば貧困状態にある子どもに無料で食事を振る舞う場として、「子ども食堂」が2017年頃から注目を集めています。でも子ども食堂をひとつつくっても、日本に住む子ども全員の貧困が劇的に改善されるわけではありませんし、デモを数回やっただけで政策が変わるわけでもない。
「根本的な改善」を社会運動の「意味」と捉えてしまうと、ああ社会運動やったの、それは意味がないよね、となってしまうことは、目に見えている。社会運動を批判する人が、社会運動の「効果」のハードルをすっごく高く見積もっているところはあると思います。
実際に、社会運動は他のいろいろな政治参加と結びついて、はじめて意味を持つものです。「廊下がさむーい」という人が出てきたら、「じゃあ、今度の生徒会長選挙の公約にしよう」と考える人が出てくる、そこで選挙の争点になると、多くの人がその問題について考えることになるでしょう。廊下を暖かくしたい生徒会長候補が当選して、廊下にエアコンを付けたりすれば、そこではじめて「廊下寒い」問題は根本的に改善されるのですが、社会運動の担う機能は「廊下がさむーい」と言うまでのところです。
ただ「言う」というのが決定的に重要で、これなくしては「廊下寒い」問題は改善されないのです。
さきほどすこしだけ2018年11月に行われたフランスの「黄色いベストデモ」について書きました。運動の結果、政府はデモの要求を受け入れて、税金の引き上げを延期し、最低賃金の引き上げなどを表明しました。
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