夢のタクラマカン
「君も出世ができる」(須川栄三監督、1964年)は、全編が谷川俊太郎作詞、黛敏郎作曲の唄と踊りに彩られたこの上なく楽しいミュージカル喜劇映画だ。とりわけ雪村いづみが唄う「アメリカでは」の場面は、ピチカートVによるカバー同様しばしば取り上げられ、YouTubeにもさまざまな動画があがっている。
しかしこの映画が、実はオリンピック前の東京の物語であることは、あまり知られていない。
舞台は「東和観光」なる観光会社。役員たちは来る東京オリンピックを、外国からの観光客を迎える千載一遇のチャンスととらえ、「全国民挙国一致」し、いや「全社員一丸一億火の玉」と化し、ライバル社である極東観光とまさに決戦せんとしている。そして、この会社にアメリカナイズされた合理的な運営方針を持ち込もうとしているのが、社長令嬢で洋行帰りの陽子(雪村いづみ)であり、彼女の唄う「アメリカでは」は、その方針表明の歌なのである。注意深い人なら、この場面の背景に、亀倉雄策による二種類のオリンピック・ポスターがちらと写っているのに気づくだろう。
アメリカでは仕事は仕事 遊びは遊び
アメリカではイエスはイエス ノーはノー
陽子の明解な歌に対して、ヒラ社員中井(高島忠夫)の様子は冴えない。中井は会社勤めに倦みながら、じつは胸のうちに、まだ見ぬ砂漠「タクラマカン」への郷愁を秘めているのだ。ミュージカルなので、秘めるだけでなく唄ってしまう。
タクラマカン
いつの日にか帰ってゆこう
ロバの背中に揺られて
地平線に囲まれた
おれの心のふるさとへ
(作詞:谷川俊太郎)
合理主義の陽子は、中井の態度にいらつきながらも、いつしかその独特の雰囲気にひかれていく。ミュージカルなので、ひかれるだけでなく唄ってしまう。
陽子:アメリカでは
中井:タ~クラマカ~ン
陽子は自分の考えの根幹をなす「アメリカ」に必死にすがろうとするのだが、気がつくと、中井の「タクラマカン」のゆったりとした旋律に和してしまうのである。
それにしても、中井や陽子を強く引きつけるタクラマカンとはいったい何なのか。奇妙なことに、映画ではタクラマカンの写真はおろかその具体的なイメージも全く登場しない。
現在、多くの人々が「タクラマカン」や「シルクロード」ということばで思い浮かべるのは、1970年代に行われた平山郁夫のシルクロード絵画展、そして1980年に喜多郎のテーマ音楽とともに放映され始めたNHK「シルクロード」を嚆矢とする数々の紀行番組に基づくイメージだろう。しかし、東京オリンピックの頃、「タクラマカン」は、ヘディンの「さまよえる湖」や井上靖の「楼蘭」に描かれる、国や湖をも飲み込む広大な何か、視覚的イメージを絶する何かであり、人智を超えた自然の力を表す名であった。そして、舌を噛みそうなその独特の響きを口にすることは、わたしたちの日常とは隔絶した砂漠への憧れをもたらしたのである。少なくとも、そこに行ったことのないものには。
死のタクラマカン
戦前にベルリン・オリンピックで始まった聖火リレーを、1964年東京大会でどう実現するか。田畑政治は組織委員会が発行した雑誌「東京オリンピック」*1で次のように述べている。
「東京大会の大きな特徴は、初めてアジアでオリンピックが開かれることである。その意味でオリンピックを象徴する聖火は少なくともアジアでオリンピックに出る国を回ることが理想であるまいか。それをどういう形式でもってくるかということは、この踏査隊のデーターを十分参考に調べ、なるべく早く具体的の方法を決めたい」。
かくして、聖火リレーのコースの可能性を探るべく、6人からなる聖火リレーコース踏査隊が組織され、1962年6月から6ヶ月にわたって、ギリシアからシンガポールまでユーラシア大陸を詳しく調査した。
「いだてん」に登場する運転手の森西栄一は、亀倉雄策、丹下健三が彼の運転するタクシーに乗り合わせたのが縁となり、この聖火コース踏査隊に応募した。意気揚々と出かけた森西だったが、半年後、変わり果てた姿で組織委員会に現れた。
「どうだった?」取りなすようにたずねる田畑に森西は答える。「どうもこうもないよ!」「砂ぼこりと熱気で、全然前に進めねえよ! タクラマカン砂漠、車で半年かかったよ!」「タクラマカンってどういう意味か知ってます? ウイグル語で「帰れない場所」または「死」だってよ」。森西は泣き崩れて、田畑に抱きとめられる。どうやら、タクラマカンという夢のようなことばを持つ砂漠で、ひどい目にあったらしい。
実は、現実の踏査隊は、タクラマカン砂漠を横断していない。当時の彼らが旅したのは、ギリシアからトルコ、シリア、イラク、イラン、アフガニンスタン、パキスタン、インド、ネパール、東パキスタン(バングラデシュ)、ビルマ(ミャンマー)、タイ、マレー、シンガポール。つまり、アフガニスタンから南東へと向かうルートであり、タクラマカン砂漠のあるウイグルには入っていない。
では、なぜ宮藤官九郎はあえて、これらの国々の名を端折って、実際のルートにはない「タクラマカン」という固有名詞をドラマで用いたのだろうか。それを考えるために、森西栄一たちの旅を、もう少し詳しく追ってみよう。
砂漠とサソリと国境を越えて
「聖火の道ユーラシア」*2という本が手元にある。聖火リレーコース踏査隊の調査記録に基づく紀行本だ。多くの東京オリンピック関係の書物がオリンピック開催年に発刊されているのに対して、この本は踏査終了間もない1962年4月に早くも発刊されているのだが、その理由は読めば分かる。オリンピック云々以前に、そこに記されている体験自体がとんでもないのである。
なにより壮絶だったのは、砂漠の踏査だった。タクラマカンこそ横断しなかったものの、イラン、イラク、そしてアフガニスタンの灼熱地獄を車で行くことは、彼らを疲弊させるに十分だった。
踏査隊は当初、シリア砂漠約1000kmを二日間で横断する計画を立てていた。ところが、ダマスクス・オリンピック委員会の人たちは、「あなたたちをシリア砂漠で殺したくない」といって、彼らの無謀をいさめ、夜の横断を勧めた。そして砂漠の定期貨物便の運転手スワヤットを道案内につけてくれた。
日本語をしゃべらないスワヤットは、道のない暗黒砂漠の中、身ぶり手ぶりで行き先を指示した。「シリア砂漠には丘らしい丘もなく、一望千里、平たんな泥土のかたまりのようであった。ところどころに土ボコリのひどい谷間のような個所があったが、重い荷物を積んでいる後車の森西運転手は、そのたびにひどくなやまされているような様子だった。ときどき、驚いた砂漠の白ウサギやネズミや小鳥がヘッドライトに照らし出されることもあった」。あとで明らかになったことだが、スワヤットは夜空に輝く星を頼りにバグダッドの方向を割り出していた。ある地元の家族は、同じ砂漠を車で横断中に迷い、無残な死体となって発見されたという。彼らはスワヤットを「ドクター」と呼ぶようになった。
着いたバグダッドは猛暑だった。昼間の気温が55度に達し、戸外では呼吸さえ困難だった。「まず、真っ赤に焼けた鉄棒で、頭をぶんなぐられたような感じだと思えば間違いない」。
そこからアフガニスタンもまた、砂漠だった。カブールまでの道は途中から舗装のない凸凹の悪路で、車は何度もパンクした。泊まった宿はサソリが横行するので、床下を一メートル上げていた。うっかり木陰で横になっていたら、足下からサソリが這い出してきて、「パンク直しのオヤジがレンガをつかんで粉々になるまでサソリを叩き潰してくれた」。壮絶な炎暑と食中毒で、6人の隊員のうちマネージャーとメカニックが下痢でダウンし、カメラマンは高熱を発して離脱してしまった。
砂漠以外の地もまた難所続きだった。インドからネパールに向かう道は大水害があったばかりで、時には深さ1m近くの泥水のたまりの中を走った。それを抜けると今度はジャングル地帯が続き、ネパールにたどりつくにはさらにヒマラヤ山脈を登らねばならなかった。
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