映画「東京オリンピック」は、鉄球の衝撃で始まる。
ポスターの赤い丸が日の出の太陽へと代わり、静かな女性コーラスが流れたかと思うと、その静寂を破るように、いきなり鉄球が古い建築の壁を破壊する。この衝撃を合図に、破壊と建設のショットに重なって過去のオリンピックの開催地が淡々と告げられていく。
今回の「いだてん」のタイトルバックに、この鉄球を思わせるショットが用いられていた。街並みの向こうからバレーボールの選手が顔を出し、ボールをブロックする。ドーンと、体育館でサーブを打つようなリバーブのきいた音がする。その直後、鉄球が建物に重い衝撃音とともに衝突するのだ。明らかにこれは、「東京オリンピック」の冒頭と「いだてん」最終章の始まりを接続させる試みだろう。
このタイトルバックから、第41回が「バレーボール」をテーマにしていること、その衝撃的な登場回であることは容易に読み取ることができる。しかもサブタイトルは「おれについてこい!」。これは鬼の大松といわれた大松博文の有名な文句であり著書の題名でもある。大松の「おれ」ぶりを活写することによってバレーボールの登場を劇的に表現することこそ今回の狙いだった…「はずなのですが」(孝蔵の声で読んでおくんなせえ)。
冒頭から頭がきりきりした。
無地に白字でテロップが表示された。
大河ドラマ「いだてん」は、10月1日にすべての収録を終了しています
徳井義実さん演じる日本女子バレーボールの大松博文監督を描くシーンについては編集などでできるだけ配慮をして放送いたします
映像がまるで平身低頭したように動かない。長い胸が苦しくなるような時間だった。その無音の間、あったはずのドラマが失われたのだ。
あとで測ってみたら、15秒の長い間だった。たかが15秒という人は、ドラマがどのように作られているかをご存じない。「いだてん」では、ちょっとした会話の場面でも1-3秒くらいでショットが次々と切り替わる。仮に平均2秒として、7,8ショットは失われる計算になる。しかも、失われたのは15秒だけではない。今回、ドラマはトータルで1分短縮されたという。少なく見積もっても20から30ショットが失われたということなのだ。
ドラマのそれぞれのショットはお互いがお互いを照らし合わせるように組み合わされて一つの流れを作る。そのために各ショットに対してはコンマ秒単位の綿密な編集が行われ、音楽が当てられる。完成されたドラマから1つのショットを削るということは、その緻密に照らし合わされた関係を削り、流れを断ち切るということなのだ。1分間分のショットを削ったとなると、やり直しは物語のあちこちに及んだだろう。
ニュースで報じられている徳井義実の所得申告もれについては、いろいろ意見があるだろう。しかし少なくとも、番組の冒頭で、15秒もの無音の時間を費やして個人の名前を記した文章を公にするというのは、彼への社会的な罰として十分過ぎるほど重い。これ以上繰り返し同じような表示や編集を望むのは、行き過ぎている。
何より、このような事態は、物語に対する暴力だ。この件でドラマにこれ以上の改変を強いるのは、もうやめてもらいたい。それでも納得しない人がいるなら、たとえば「いだてん紀行」の最後、映像の下に2,3秒「このドラマは、10月1日にすべての収録を終了しています」とテロップを流せば十分だと思う。
バレーボール・チーム登場
そのような制約の中にあって、放映版での大松博文の登場は、見る者を驚かす迫力だった。就業時間の終わり、休憩する間もなく廊下で着替えながら移動していく選手達。体育館に入ると、いきなり選手に投げつけられるバレーボールの激しい音。「お前は、何が河西や、ウマやろがい!」「お前は」でバレーボールを投げつけるときにさっと息を飲む大松役の徳井義実の間合い。一方、その大松に「カカシちゃいます、河西です!」と答える河西昌枝役の安藤サクラは、「まんぷく」を経て大阪弁をすっかり自家薬籠中のものとしている。そして「はい再開!」といってバウンドさせるボールが速い。アップになる顔は有無を言わせぬ仏頂面。
「ウマ、パイスケ、力道山、アチャコ、フグ、オチョコ」大松は選手たちのあだ名を、呼ぶというよりも、ただ数を数え上げるように次々に唱える。一方、それぞれの選手は、名を呼ばれるや大松の唱える隙間に潜り込むように「はい!」と即答する。そのことで、彼らの中にただならぬ関係が築かれていることが分かる。岩田幸彰が思わず「あなたの指導法、私は感心しません」と割って入る。感心しませんどころか、今の時代から見れば完全にハラスメントだ。しかしこれは正しい指導法を啓蒙する教育テレビではない。大河ドラマなのだ。そして大松の耳には、岩田の助言など全く耳に入っていない。柔道の受け身を見て「これや!」。治五郎が「そこだよ、そこ!」なら大松は「きたきたきたおおあたりや!」。いいじゃないか大松。彼や河西をはじめ日紡貝塚の面々の何かに憑かれたようなふてぶてしさは、これまでの「いだてん」になかった新しい緊張をもたらしつつある。
もう一人の「おれ」
その大松に対するもう一人の「おれ」が田畑政治だ。
田畑は何かというと「おれのオリンピック持ってこい!」と巨大な競技場模型をでんと置く。何度も置く。鼻につくほど「おれのオリンピック」を繰り返す。川島正次郎ならずとも、「貴様のオリンピックではない!」と言いたくなるほどだ。にもかかわらず、その田畑の「おれ」節に、不思議と才能豊かな者たちが集まってくる。料理長村上信夫が新しい料理を広げ、グラフィック・デザイナー亀倉雄策が、映画監督黒澤明がナベサダのサックスに乗り、建築家丹下健三がラフスケッチを書く。
大松博文という根性主義まるだしの「おれ」に日紡貝塚のメンバーが「ついて」いくのも不思議だが、田畑政治という早口で多弁で一言も二言も多すぎる「おれ」に才人たちが「ついて」いくのはさらに不思議だ。丹下と亀倉はその田畑の魅力についてこう語り合う。「ガキ大将とも違うし…ただのワンマンというわけでもない」「引力のようなもんがあるんだよなあ」。この奇妙な、田畑の「引力」はどこから発生するのか。
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