子供、無理かもよ。4年後、私は40だし」

オリンピック出場をかけた大会でいいところまでいきながらも途中あきらめてしまった35歳のマラソン選手・美雪。彼氏のプロポーズを受けた後も、そのことが頭から離れない。そしてついにある決断を──。
「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤と、その周囲の人々のそれぞれの人生の選択を描いた七つの短編集『産まなくても、産めなくても』より「折り返し地点」を特別公開。


 どうしてあの時、という答えのない疑問は日を追うごとに、美雪の中で大きくなっていった。指の間から砂がこぼれるように時間が過ぎていき、周囲はもう次の場所に美雪を連れて行こうとした。

 亮は、改めて美雪にプロポーズをした。彼が世界中で餃子が一番おいしいと思っている中華料理店で食事をした帰り、歩きながらいった。

「大阪でのミユはすごかった。かっこよかったよ。がんばって美雪にふさわしい男にならなくちゃ、と思って心が震えた」

 そんなことないよ、といおうとしたら、亮が続けた。

「結婚しよう」

 美雪は黙ってうなずいた。嬉しかった。

「そのうち、自分たちの家族を作ろうね」

「それって、子供ってことだよね?」

「うん、まあ。具体的にはね」

 美雪は少し気が重くなった。

 生理が止まったままの自分に妊娠などできるのだろうか。

 母はこの結婚話に大喜びして、涙を流した。広田コーチやチームメイトにも報告すると、みんな一様に「おめでとう」というのだった。有望な後輩の一人は、勇気がわくと美雪に告げた。

「競技に打ち込んで、練習ばっかりで、普通の女の子みたいなことしてなくても、ちゃんと恋愛とか結婚とかできるんだって」

「何、それ? 嫌味?」

「違います、違います。本当に心からそう思うんです。美雪さんのおかげで今は迷うことなく、練習できるっていうか」

「そっか。私も少しは役にたってるのね。東京オリンピックでは代表になれるといいね」

「はいっ。がんばります。東京が終わったら、私も恋愛して結婚して、すてきなママになります」

 二人は笑いあった。

 その後、女子マラソンの代表選考は揉めた。マスコミはあれやこれやと見解を披露した。十四位で二時間三十六分十六秒の美雪の名前なんて、もちろんどこにも出てこなかった。

 正式に引退を発表する前日、美雪は新倉にメールをした。

──おつかれさん。

 それだけの返信の後、電話がかかってきた。

「おう、久しぶり。引退の前にこれだけはいっとこうと思ってよ。一応、元監督としてな。大阪、いい走りしてたよ。江夏らしいというかさ」

 スマホを持ったまま、深くお辞儀をした。胸の奥にある新倉に対してのわだかまりは消えたけれど、反比例するように疑問は大きくなるばかりだった。どうして私は、あの時、あきらめてしまったんだろう。

 美雪の引退のニュースは、新聞のスポーツ面で三行ほど触れられただけだった。


 二月に引退しても、会社での所属はそのままだったので、朝十時に形だけの出社をして、午後二時にはデスクを離れる。食べたいものを食べたい時に食べる。おだやかな毎日だった。梅雨時には、三十六歳になった。

 秋には、ささやかな式を行なうことになっている。

 時々、軽く走った。マラソン中継は一切見ないようにしていた。見たいとも思わなかった。ニュースで、リオ・オリンピックに誰が選ばれたのかは知ったけれど、自分にはまったく関係のないことに感じられた。

 生理はなかなか戻らなかった。

 産婦人科に行くと、ホルモンのコントロール剤やらビタミン剤やら、大量の薬を処方された。

「早く生理を戻さないと、将来、妊娠できなくなってしまいますよ。江夏さんはもう三十六歳でしょう。こういっては何ですが、急いだほうがいいと思いますよ」

 産婦人科医の言葉に驚いた。自分は妊娠するためにあせる年齢だったのか。目の前の練習とレースを追いかけていたら、気がつかないうちに、折り返し地点を過ぎていたらしい。

 ドーピング検査にひっかからないよう、風邪薬でさえ慎重に選んできた美雪にとって、大量の薬の服用は相当のストレスだった。結局、一錠も飲むことができなかった。

 伝手をたどって、不妊治療で評判の漢方医のところにいった。鍼治療も始めた。下腹部に集中して鍼を当てる。そのうち、自分の身体は女に戻れるのだろうか。

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この連載について

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産まなくても、産めなくても

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

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