ただの陸上選手で終わるか、オリンピック日本代表になるか。

オリンピック選考を兼ねた大会。35歳のマラソン選手、美雪は快調に飛ばし、トップグループをキープ。走ることがこんなに心地よいなんて知らなかったと実感していた美雪だったが──。
「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤と、その周囲の人々のそれぞれの人生の選択を描いた七つの短編集『産まなくても、産めなくても』より「折り返し地点」を特別公開。

レース当日、午前五時半起床。天気予報は晴天だった。白湯を飲み、カステラを一本食べる。卵の味がしておいしい。食べ物をおいしく感じられるのは調子のいい証拠である。集中できていない時は、何を食べても味がしない。

 ホテルを出て、コーチやチームメイトとジョギングをする。六時頃の空はまだ薄暗く、冬の朝らしい寒さが心地よかった。今日、はじめてフルマラソンを走る若いチームメイトは泣きそうな顔をしている。ジョギングの後、部屋に誘って、もう一本のカステラを食べさせた。若いチームメイトは、事務的に口を動かし、水でそれを流し込んでいる。

「もうちょっと味わったら? それ、おいしいんだから」

「は? はい。あ、これ、甘くておいしい」

 彼女の気持ちも少し落ち着いたようだった。

 朝食は、大きめのおにぎりを四個。具を入れていないお味噌汁と一緒に食べた。

 午前十時、ホテルからオフィシャルのバスでヤンマースタジアム長居に向かう。車中では選手同士、おしゃべりをする。天気のこととか食べ物のこととか、さしさわりのない話題だ。外国人選手が英語でジョークをいったようだが、美雪には何をいったのかわからなかった。

 バスの窓から大阪の街を見渡す。八年前、ここで大きな手応えを感じた。オリンピックという言葉が自分の人生に関わり始めた場所だった。もう一度この街を走れることが嬉しかった。

 スタジアムに着き、まずは入念にストレッチをする。少しずつ、けれど、確実に身体をほぐしていく。この肉体は自分の最大の武器であり、宝物だ。ストレッチをする横で、広田コーチがくだらないダジャレをいう。レース前の、いつもの光景だった。

 トラックでスプリントを数本こなすと、いよいよスタートの瞬間が近づいて来たという実感がわく。ペースの速いレースになるだろうという新倉の言葉が頭をよぎる。スタジアムは、オリンピックの代表に選ばれる選手をこの目で確かめようとする観客で埋め尽くされていた。

 いったん、スタジアム内の共有スペースに戻って、ゼッケンがついた本番用のウエアに着替える。もう練習はできないし、時間は戻せない。数時間後、ここに戻って来た時、自分がやってきたことがさらけ出されるだけだ。ただの陸上選手で終わるか、オリンピックの日本代表になるのか。私のこれからの人生がかかっている、そんなふうに思った。

 あふれんばかりの陽光をトラックの芝生が反射して、光って見えた。ベンチコートをスタッフにあずけ、スタートラインに立つ。トラックの内側からゼッケン「1」の重友選手、「2」の福士選手、そして「3」、白人のペースメーカーと続く。美雪はケニア人のペースメーカーの隣、最前列ではあるものの端のほうだった。今回の大会ではペースメーカーが四人ついていた。大阪国際女子マラソンにペースメーカーがつくのは三年ぶりだという。

 最初はとにかく先頭集団に交じれるように、飛び出してやろうと思った。白人のペースメーカーを目安にする。スタート一分前のアナウンス。自分の心臓の音が聞こえるぐらい、緊張していた。

「オン・ユア・マーク」

 構えた手が震えている。口の中はからからだ。

 号砲が鳴り、美雪は走り出した。足が動き出してしまうと噓のように緊張が消える。マラソンのレースを走るのは十四回目だけれど、毎回毎回こんなふうだ。号砲の前と後ではまるで重力の違う世界にいるように、肉体が意思を持つ。

 スタジアムを出る頃、美雪は先頭集団のすぐ後方についた。ペースメーカー以外は七人のランナーが塊になっている。

 五キロ地点通過、十六分四十四秒。思った以上の高速レースだった。美雪は早くも汗ばんだ。キロ三分二十秒は、経験したことのない速さだった。

 沿道の声援の大きさが、このレースの注目度を物語っている。そこらじゅうで選手の名前が書かれたのぼりや日の丸がはためいている。

 十キロを三十三分二十三秒で過ぎた後、白人ペースメーカーがコースをはずれた。目の前にいた若い選手が視界の端にずれ、そして消えていった。集団は六人となった。少しでも気を抜くと、足がもつれそうになる。必死でついていった。

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産まなくても、産めなくても

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

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