レース前日の朝食は、ホテルのバイキングだった。レストランの入り口で新倉にばったり会った。心臓がきゅっと縮こまった。
「おう。久しぶりだな。おれ、明日、解説で入ってるんだよ」
黙って、頭を下げた。この男に会うと、美雪は今でも緊張する。もう監督と選手ではないのに。あの八年間が長かったのか短かったのかわからない。ただ、濃い時間だった。新倉と美雪は、師弟であり、親子であり、兄と妹でもあった。しかし、教祖と信者というのがあの関係性を表すには一番しっくりくるかもしれない。
新倉が指導している間、その実業団は金メダリストを一人、銅メダリストを二人出した。後に続く選手が育たないとみるや、あっさり監督を辞め、タレント事務所と契約をした。話がうまくルックスも良い彼は、マラソンの解説にとどまらず、多方面から声がかかった。『メダリストの作り方』という本はベストセラーになり、人気女優の主演でドラマ化もされた。最近はバラエティー番組で見かけることもある。
新倉は、監督だった頃と同じように、美雪の目をじっと見ながらいった。
「けっこうペース速いレースになると思う。振り落とされるなよ」
「ありがとうございますっ」
新倉は、美雪の肩をぽんと叩いて出ていった。
もう教え子ではない自分に、レース展開を教えてくれるとは意外だった。彼は自分のキャリアのプラスにならない選手には冷たい。いい線までいくのになかなか勝てない美雪は、途中から完全に見放された。実業団を去る時も、「ああ、おつかれさん」の一言だけだった。
テーブルでは、広田コーチと栄養士が待っていた。栄養士がバイキングのメニューから、食べるべきものを選んでくれる。食べることも練習のうちだ。目玉焼き二個とご飯二膳、きつねうどん、野菜サラダ、大根と豆腐のお味噌汁、バターなしのトースト三枚。
部屋に戻ると、実家の母に電話をした。
「明日はパパとテレビで見てるからね」
「うん。こっちに呼べなくてごめん。リオに出られたら、必ず連れてくからね」
「いいのよ、そんなこと。ちゃんと食べられてるの?」
「昨日の夜はたこ焼きと焼きそば、たくさん食べた」
「そう。良かったわね。じゃあ、がんばってね。それから……」
「それから?」
「レース終わったら、ちゃんと婦人科行くのよ」
「それ、今の今、いうこと?」
「だって、あなた、マラソンマラソンで何でもかんでも後回しにしてきて……」
「そういうの、レースの後にして!」
つい、声を荒らげてしまった。
これだから、母親はやっかいだ。レースの前日だというのにランナーとしての美雪ではなく、娘の美雪の心配をしている。このまま聞いていたら、いつもの流れで、早く子供を作れという話になる。体脂肪率九パーセントの身体で、どうやって妊娠しろというのだろう。
新倉が監督を務める実業団にいる頃、美雪の生理は止まったままだった。食事制限が厳しく、選手たちは極端に脂肪の少ない食事をとっていた。必要な筋肉以外はなるべくつけないためだ。
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