なるほど、となりたいから書くのかもしれない
—— 一冊分のエッセイを書き終えて、今、どんなお気持ちですか?
Cocco そうだね、書き終えると多少なりともさっぱりする。
—— それはモヤモヤしていた感情が整理されたということですか。
Cocco うん。今日あったことを誰かに話すってときに、だいたいのストーリーってあるよね。今日、おもしろいおじいさんに会ったよっていうことでも、それを言う相手によって、ちょっとずつ話の順番とか語尾が変わったりする。そういうのってある種、“賭け”とか“勝負”っぽいところがあって、伝わるかな? と思いながらしゃべるさ。そうやって話す相手によってその都度工夫しながら話すっていうのは、結構安定しないことで。でも、それが文章になったら、まとまって安定する。フワフワとかバラバラしてた話が、ひとつの安定した文章になると、さっぱりするみたいな。話の平均が出る感じかな。
—— なるほど。平均という言葉を借りると、エッセイの中で、平均の取り方がうまいと思わされるところがたくさんあります。多くの人が共感できるトピックが選択されていて、さらにそこでの論理の展開もみんなが納得しやすいように書かれている。人によって平均は違うわけで、Coccoさんは書いているとき、特定の誰かの平均に向けて書くという感覚なのでしょうか。
Cocco いや、意識してるのは、自分に嘘をついていないかっていうことで。たとえば、おじいさんの頭がつるつるでさあ、と誰かにおしゃべりするとき、本当は少し生えてたとしても、すごいつるつるなんだよって言ったほうが伝わりそうだと思ったら、ちょっと大げさに話を盛って、つるつるってことにして笑わせたいよね。おしゃべりはライブだから。でも文章のときは、最初につるっぱげって書いたとしても、いや、そうじゃないよなあって考える。ちゃんと正しく思い出して、嘘をつかずに書こうと思う。あんまり自分が浮かれない、場に流されないように書こうとする。
—— エッセイの一篇「欲求」の中で「書くとは人を知ること」とあります。
Cocco おしゃべりのときは、おじいさんに会った自分が話を作っちゃってる。はげててほしいっていう自分の思いが強い。でも書くときには、おじいさんを思い出して観察し直して、改めて理解しようとする。そして最終的におじいさん、そんなにはげてないじゃんっていう感じで、おじいさんを知ることになる。
—— Coccoさんはおしゃべりがおもしろいことでも定評がありますが、文章は、話よりも落ち着いていて、地に足がついた感じがするのは、そういう理由かもしれないですね。今回のエッセイ集は、これまで発表してきたさまざまな本よりもテーマが多岐にわたっていますが、どうやって書くべきテーマを見つけていったのですか?
Cocco 昨日会った、あのはげたおじいさんのことを書かなきゃって思っていると、たとえばバスに乗っているときとかに、書き出しがバッと見える。そしたらその続きを書かないとってなる。
—— 結論やそれに至るまでの構成を考えてから書くということではないのですか。非常に構成が練られていると感じるところもたくさんあります。
Cocco いやいや、書き出しは決まっているんだけど、続きは書きながらそうなっていく。最初の1、2行が頭の中をぐるぐるしていて、早く書かないとってなるのね。で、それを書かないと3行目がどうなるかはわからない。そして3行目を書かないと4行目のことはまったくわからない。4行目の秘密は3行目にあり、3行目の秘密は2行目にある(笑)。小学校の頃、作文を書くときに、起承転結ってノートに書かされて、「起」は何を書く、「承」は何を書くって決めさせられたけど、あれがどうしてもできなかった。書く前に割り振るって、えっ? 「起」を書かないと「承」なんてわかんないじゃんって。
—— ポジティブなメッセージとともに締められている話が多いのが、今回の特徴だと思います。書き出し以外は決まっていないとしても、伝えるべきメッセージはあらかじめ用意されているのでしょうか。
Cocco いやあ、書いていって、自分でもなるほど、となる。なるほどって、たぶん知りたいから書くのかもしれないね。
—— 歌とはまったく違うんですね。
Cocco 歌はどうだったっけ……忘れちゃった……。
—— 同じく「欲求」の中では、「歌は自分を知ること」とありますが。
Cocco ああ、じゃあ書くことは、歌の他人バージョンって感じかな。
—— 今回は家の冷蔵庫の買い替えや、子育てのことなど、これまで発表してきたエッセイに比べて、より私的な感情や状況をも書いていますが、その変化についてはどう思いますか。自分の身の周りのことを書いて伝えるという行為にどのような意味があると思っていますか。
Cocco なんだろう……歌以外もやっていいっていうのはわかったのかな。デビューした頃は、歌以外に出口がなかったわけ。あれもできない、これもできない、でも歌ならできます、だから歌やってます! って感じだったから。でもそれまでは出口が一個もなかったから、歌っていう一個の出口でも見つけられたっていうのはすごい嬉しくて、歌に集中してたし、歌わないと死んじゃうって思ってた。歌わないと死んじゃうっていうのは、すごい恋してる感じで苦しいというか、この人しかいないっていう一途な情熱なわけ。でも今は、あれ? 歌わなくても生きてはいけるんだと気がついた。絵を描いたり、文章書いたりしても案外さっぱりするのね、それも出口だったのねと気がついたという。
—— 文章という一つの出口だけを見てみても、最初のエッセイ集(『想い事。』)から6年経つ間に、どんどん書くことや、書き方に広がりが出てきているように感じます。出口が大きくなっているかのようです。
Cocco でもそれは、書けばいいんじゃないのって勧められるからじゃないのかな。
わかってない! と言われることが嬉しい
—— 今回の本には36篇のエッセイが収録される予定です。書かれていることは本当にいろいろですが、全体を通しての大きなテーマは「大人になること」だと感じました。それは、未だ途上である自分、つまり少しずつ大人になっていく自分を客観的に見て、楽しんでしまおうというポジティブな姿勢であるように思います。このテーマはどこからやってきたのでしょうか。
Cocco ダンスかなあ(Coccoさんは昨年から社交ダンスを習い始めている。このことについてもエッセイの中で詳しく書かれている)。大きくなってからも習ったり、教えられる立場になると、学ぶことがいっぱいあるんだという発見があった。
—— 知らないことや、わからないことがあるということを、喜びだと意識できるようになったということですね。
Cocco そう。歌をやってるときは、歌のことは全部わかるんでしょう? という前提だから、全部、私が決めなければいけない。この歌はあなたから出てきた歌なんだから、わかってるんでしょ? という前提。でも、私はわからないんだよね。歌って歌って歌っていって、やっとわかることがあるけれど、それはもうだいぶ後になってから歌に学ぶという感じで、出てきてしばらくはなんにもわからないで歌ってるわけ。
でもダンスをやってるときは、先生にお前わかってないなって言われて、はい、わかってないです! っていう感じがすごく身の丈に合う。たぶん歌に関しては、才能はあるんだけれども、器量がないんだろうな。自分のキャパシティーを超えた歌が出てきてしまうから、わからないってことになる。自分は、竹筒みたいなもんだから、わからなくてもしばらくはひたすら歌うしかない。でも、歌うことをちょっと止まって、ダンスとかを始めてみたら、わかってないっていう自己認識と、わかってないと言われる周りの認識が一致する。そう、わかってないんですよ! という感じ。
—— それが一致するというのは、安心するということですか。
Cocco うん、嬉しい。ダンスとか、文章書くのもそうなんだけど、リアルタイムでわかっていくのが身の丈に合っている。能力と器量が一致する感じなわけ。全体で10行まであるとしたら、2行目まで書いたら2行目までわかって、3行目を書いたら3行目までがわかってというのが、4、5と進んでいく。歌は何行目というのがなくて最初から塊としてある。 1行目もわかんないのに、全体があるのがなんでかわからない。歌はね、もう本当についていくだけでいっぱいいっぱいですよ。歌の感性だけが飛び出していて、その感性に技術や器量、何もかもついていってないから。
—— 大人になるにしたがって、飛び出た感性と折り合いをつけたり、それに対処する術を見つけたりすることができるようにはならないのですか。
Cocco そうだなあ、防御本能かわからないけれども、わからないときはわからないまま走らないようになったかな。歌に関しては自分を追い込まない。わかんないなら、一人で歌っとこうと。わかんないのに人前で歌ったら、わかってるんでしょう? っていうことにやっぱりなるからね。ちゃんとトレーニングして世界陸上に出よう。今日から始めたのに、明日いきなり世界に出るみたいなのは、選手生命を縮めるからやめようっていう(笑)。
(構成:日野淳)