代表に選ばれなかったら、明後日が引退レース?

マラソン選手の美雪は、35歳。選手としても、「子供を産める女」としてもタイムリミットが迫っていることを、本人の意向とは関係なく周囲はいちいちリマインドしてくる。そんな彼女の目標はオリンピック出場。彼氏・亮はそんな彼女を応援してくれているが──。
「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤と、その周囲の人々のそれぞれの人生の選択を描いた七つの短編集『産まなくても、産めなくても』より「折り返し地点」を特別公開。

一月最後の金曜日。大阪は冷たい雨が降っていた。江夏美雪は新大阪の駅に降り立った。一瞬、身体にするどい寒気が走る。武者震いというやつだ。

 明後日の日曜、十二時十分、大阪国際女子マラソンがスタートする。スタートとゴールはヤンマースタジアム長居だ。

 四年間にやってきたことのすべてが試される。もっといえば、同じ大会を走った八年前からこの日を想定してきたといってもいい。明後日の四十二・一九五キロのために、食事を節制し、体調を管理し、日々走り込み、それ以外のことをほとんど我慢してきた。

 駅の雑踏の中にいると、あちこちから大阪弁が聞こえてくる。やっとこの時が来たという思いと、ついに来てしまったという不安が心の中で入り交じる。

 コーチの広田がいった。

「江夏、顔がこわいよ」

「え? そうですか?」

「うん、かなり。おばはんが若くてかわいい子に彼氏を横取りされたって感じの顔になってる」

 そう歳の変わらない広田コーチは、こういう下手な冗談をいってレース前の緊張をほぐそうとしてくれる。リラックス、リラックス。いつも通り。マラソンは特別な競技じゃない。それが彼の方針であり、口癖だった。

「会見ではスマイル、忘れんなよ」

「わかりました」

 美雪が所属しているのは、急成長したネットショッピングの会社が四年前に設立した陸上部だった。同社のサイトは化粧品やアロマグッズ、スーパーフードなど女性向けの商品が充実していると評判で、ランニングブームにのって、さらなるイメージアップを図ろうとしている。

 オフィシャル・ホテルであるホテルニューオータニ大阪のチェックイン・カウンターは、選手やコーチ、監督、それにマスコミやスポーツメーカーの人たちなど、大阪国際女子マラソンの関係者で混み合っていた。

 部屋に着くと、美雪は荷解きもそこそこに、恋人の勝山亮にLINEのメッセージを送った。

──今、ホテル。いよいよだ!

 サラリーマンの亮は勤務中で、金曜のこの時間帯はおそらく会議だろう。メッセージに既読がつくのはずっと後のはずだ。身支度を整え、記者会見のために手早く化粧をした。

 顔全体にうっすら粉をはたいて、薄いピンクのチークをいれ、透明なグロスを塗り、ティッシュで押さえる。最後に眉を少し足して、三分で完成。メイクをするのは、今のチームに入ってからだった。それまで化粧をしたことなどなく、化粧水と日焼け止め、リップクリームぐらいしか持っていなかった。

 陸上の選手が化粧をすることに驚く人は少なくない。その驚きは軽い落胆を意味していた。マラソン選手は、うぶで純粋で世間知らずで、欲も色気もなく、走ること以外何も知らない、そういう存在であって欲しいのだ。実際、美雪もかつてはそういう女の子だった。

 昨年の東京マラソンでゴールした後、カメラの回っていないところで、女性アナウンサーに不思議そうにこう聞かれた。

「もしかして、メイクしてらっしゃいます?」

「ええ。簡単に、ですけど」

「うっそー」

 彼女は失礼なぐらいまじまじとこちらの顔を見た。向こうは、こってりと塗ったファンデーション、まばたきの度に音がしそうなほどのマスカラ、正確に縁取られたリップラインや濃いめのチーク。あの顔を作り上げるには、小一時間はかかるだろう。

 会見場に入ると、そこはたくさんの人やカメラで埋まっていた。美雪はスタッフに誘導され、会見台の最も左端の席に座った。八年前は一般参加だったから会見の義務はなく、大阪入りは前日だった。

 質問は福士加代子選手や重友梨佐選手、このレースを最後に母国に帰るというケニア出身のチェピエゴ選手に集中する。自分はこの場に必要なのだろうか。つい、そんなふうに考えてしまう。余計なことに気を散らせたくはないと思いながら、彼女たちのやりとりを聞いていた。

 やっと美雪に質問がきた。地元のテレビ局のレポーターだった。

「江夏さんは三十五歳ということで、これが最後のレースになるという見方もありますが、それについてはいかがでしょう?」

「私の最後のレースは、八月のリオ・オリンピックにしたいと思っています」

 リオという言葉に、会場がほんの少しざわめいた。驚きとも嘲笑ともつかないざわめきである。三十五歳の、それほど期待されていない選手がオリンピックに言及したからだろう。報道陣の後ろにいる広田コーチに視線をやると、左右の人差し指を頰にあて、口角を上に引き上げていた。美雪はあわてて、笑顔を作った。

「では、リオの代表に選ばれなかったら、明後日が引退レースになるわけですね?」

「ですから、これが最後のマラソンになるとは考えておりません」

 美雪は自分にいい聞かせるように、そういった。

 オリンピックの日本代表は三枠。一枠は世界陸上七位入賞の伊藤舞選手で既に決まっている。残りの二枠が、さいたま国際、大阪国際女子、名古屋ウィメンズの三レースの結果を考慮して選ばれる。二ヵ月ほど前に行なわれたさいたま国際では、吉田香織選手が日本人最高位の総合二位になっている。タイムは二時間二十八分四十三秒だった。なんとしてでも、そのタイムを超えたかった。


 八年前、美雪は一般参加でエントリーをしたこの大会で、予想以上の結果を出した。二時間三十分四秒で走り、十四位だった。「入賞」が手を伸ばせば届きそうなところまで来ていた。それまで考えたこともなかった(これは噓。ちらっと頭をよぎったことはある)、オリンピックの日本代表がその先にはあった。ゴールした後、今回の北京は無理だが、四年後のロンドンはいけるかもしれないと感じた。練習を重ねるうちに、その思いは、もしかしたら、ではなく、絶対にいけるという確信に変わった。地道に結果を重ねていき、周囲の扱いも少しずつ、「有力候補」になっていった。

 けれど、ロンドン・オリンピックの年度の初め、二度の疲労骨折をして、選考レースのスタートラインにさえ立てなかった。結局、八年越しの挑戦になった。

(次回に続く。次回「 35歳なんて、まだまだいろんな可能性がある。」は12/4 公開予定)

「これは私の物語だ」─そう思える登場人物に、きっと出会える。はあちゅう氏推薦!

この連載について

産まなくても、産めなくても

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

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