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アイスクリームで冷えた舌を常温に戻す「反みみたぶ」としてのウエハース
ウエハースという言葉を初めて聞いた時、風のことだと思った。
それがアイスクリームに添えられたりする軽い板状のもののことだと知っても、風のことだと思っていた。
ピアノを習いたいと母に訴えたのは幼稚園生の時だ。
「ピアノを習うにはまずオルガンを習わなければならないのよ」と母は言い、やがて家に足踏みオルガンが来た。
それは母の足踏みミシンの横に置かれ、母とわたしは一見連弾をしているような様子で、同じリズムで別のことをしているのだった。
何を弾いても母が合わせてハミングしてきた。
脳がつながっているようでしばしば逃げたくなった。特に「蝶々」と「赤とんぼ」は、母が子どもだった昔を思い出して途中から泣き出してしまうので弾きたくなかった。でも一日に一回は弾かないと「どうして今日は弾かないの?」と詰め寄られるので、一日一回は弾いた。オルガンは足もとの板を踏むことによってパイプに空気が流れ音が出るという造りだが、わたしが足で板を踏むリズムと母の呼吸のそれが必ずシンクロしてしまうので、とても息苦しいのだ。
だから、早くピアノを弾きたかった。
けれど小学二年生になってもわたしはオルガンを弾いているのだった。
その冬にデパートの最上階のレストランで銀の器に盛られたアイスクリームを食べた。
このときウエハースを初めて見た。実際に見ても食べてもやはり風だった。
母がわたしの頭の中を読んだように「オルガンは風琴て書くのよ」と言ってきた。またとても息苦しくなる。
濃い味のアイスクリームよりほとんど味のないウエハースが好きになった。
わたしは三年生になった。と同時にオルガンの鍵盤が次々ウエハースになっていって弾けなくなった。母がそれを見てやっとピアノを買ってくれた。間もなく母の足踏みミシンも電動に買い換えられた。
ピアノの鍵盤はオルガンよりずっと重くて、ウエハースになりそうな気配はどこにもなかった。
風が消えた。止まった空気の中に、電動ミシンとピアノと、母とわたしが沈殿している。
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