みんなの苦しみに共通する「根っこ」とは?

なぜ私たちは「わがまま」を言えずにがまんしてしまうのか? それはある属性に基づく苦しみが、共有しづらくなったことと繋がっています。今回は、私たちの苦しみをつなぐ「根っこ」、そして社会運動の重要なキーワードである「かわいそう」を軸に、現代社会と「わがまま」について考えてみましょう。(桃山商事のみなさんと富永恭子さんの座談会「恋とか愛とか社会運動とか」と合わせてお楽しみください)(毎週水曜更新)

違いからはじめて同じ根っこを探す

ここまですこし矛盾するようなふたつのことを書いてしまったので、整理しますね。

まず、私たちはどんどん個人化していて、たとえ同じ出自の人であったとしても苦しみは簡単に共有できない。その一方で、「女」とか「外国人」とか、ある属性に基づく苦しみは、たしかに見えない形で残っていて、その表れ方や見え方が昔とは違うんだ、ということです。

こうした時代に見られる「わがまま」は、#MeToo 運動のように、それぞれにみんな違うなかで、異なる苦しみを抱えていて、共通する「根っこ」を探していくような活動のあり方、という感じでしょうか。

「根っこ」は私たちのいたるところに隠れています。たとえば「いつ自分が差別される側だと思ったか」という話を女子学生としたときに「就活(就職活動)のとき」と言っていました。

その話をしていたのと同じくらいのタイミングで、東京医科大学が性別による入試差別をした事件が起こった。大学生時代には「自分とは関係ない」「医学部は大変ね」と思っていたかもしれないが、就職活動をしてみて「ああ、あの医大の事件と自分がなかなか内定を得られないことは、もしかしたらつながっているのかもと思った」とその学生は言っていました。つまり大学入試の問題と就職活動の問題、どちらも女性への差別という根っこでつながっていたとわかったということですよね。

#MeToo運動も同じで、被害に遭った人が「職場でこんなことをされて……」とか、「学校でこんなことがあって……」と経験を説明することで、場は違うけれども、いわゆるハラスメント被害には何か共通の根っこがあるんだな、とわかってくる。

つまり #MeToo 運動は、以前のフェミニズム運動や住民運動のように、同じような立場の人々が苦しみを訴えるというより、それぞれ表面的には違う個人の共感のつながりからできていると言えます。

これは女性に限らず、男性でも子どもでも老人でも同じで、社会を「層」として見ることはもうできないけれど、何か嫌な目に遭った人々が寄り集まって、それぞれに経験を話すことで、他の人への橋をかけていく。そうすると、違う問題のはずなんだけれど、ちょっとずつ同じ根っこが見えてくる。それが、現代の社会運動の特徴です。

私、別に「かわいそう」じゃないし…

個人化によって苦しみが共有できないということは、他者から見ると、この人はこういう理由で苦しんでいるんだ、「かわいそう」なんだとわからないことでもあります。「かわいそう」という言葉もまた、社会運動を考えるうえで重要なキーワードですから、ここでは「かわいそう」という感情を軸に、現代の社会と「わがまま」を考えてみましょう。

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

この連載について

初回を読む
みんなの「わがまま」入門

富永京子

「権利を主張する」は自己中? 言っても何も変わらない? デモや政治への違和感から、校則や仕事へのモヤモヤまで、意見を言い、行動することへの「抵抗感」を、社会学の研究をもとにひもといていく、中高生に向けた5つの講義。身近な「わがまま...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

thinktink_jp "ただ、個人化した時代の私たちにとっては、年少者や女といった「共通の要素でくくる」ということや、そのような要素が「かわいそう」..." https://t.co/3HsEA67K6n https://t.co/kmuH6Dekoq #drip_app 約1ヶ月前 replyretweetfavorite