子どもは置かれる環境で人生が大きく左右される。障害児と言われる子を持つ親はきっと悩むだろう。
「この子を普通の子と同じ場所で育てるか、障害児の施設や養護学校という場所で育てるか」
私の就学期、養護学校は数も少なく、自宅からも遠い場所にあった。いとこや近所の子どもたちとそれなりに成長していた娘を見て、両親は教育委員会の前で覚悟を表明した。
「普通学級でどうしてもやっていけない時に、相談に乗ってください」
そして、障害認定を受けるかどうかも、本人が成人してから自分で決めさせよう、と両親は思ったそうだ。この時代は福祉サービスも充実していなかった。ただでさえ、私が誕生したことにより、後ろ指をさされ続けた両親。障害児と認定されわずかな優遇を受けることも気が引けたのだろう。
ただ、一九七八年から始まった西淀川公害訴訟によって、訴訟後間もなく、私は認定患者になった。夜な夜な喘息の発作で苦しむ娘を見ていた両親は、命に関わると思い、認定を受け、当時当選倍率が高かった空気のきれいな北摂の公団に転居した。
障害認定を受けたのは大学四回生の時だった。福祉行政の授業で障害年金が大幅に上がることを耳にした。就職活動も人一倍したが、どこも採用にいたらず、社会の壁の厚さを痛感していた。そんな時、ゼミ担当の教授が言った。
「君は、君やご両親がどう思おうと、れっきとした脳性まひ者。障害者ですよ。これまで障害者手帳がなかったこと自体、不自然です。手帳の交付と障害年金の申請をしてみては?」
後日、一種二級の手帳を見せたら、教授は「特殊特級の間違えじゃないの?」とつぶやき、うっすら笑みを浮かべた。
一方、発達障害児の場合はどうだろうか。診断を受けても、車いすや補装具の申請をすることもない。社会からレッテルを貼られただけ、と感じている親御さんも少なくないだろう。
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