きっと次がありますよ」

30代半ば、結婚4年目での妊娠を機に夫・孝昭との間の空気が変わり、大切にされていることを実感する佐和子。充実感から心に余裕が生まれ、孝昭にも、子供のために食べ物にも気を遣う日々を過ごす。6か月を迎え、おなかの中の子供は順調に育っていたはず、だったが……。
「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤と、その周囲人々のそれぞれの人生の選択を描いた8つの短編集『産む、産まない、産めない』より「温かい水」を特別公開。

翌月の第二木曜日に、孝昭は有休がとれることになった。カレンダーの数字を赤く囲み、楽しみにしていた。その日までちょうど三週間という夜、切り出してきた。

「おれたちの子供の名前なんだけどさあ……」

 孝昭は、必ず子供の前に〝おれたちの〟とつける。

「もし、女の子だったら、美しい音の子って書いて、美音子にしない?」

「美音子……、美音子かあ。美音子、美音子」

 佐和子も口に出して、繰り返してみる。

「このあいだ、佐和子が赤ちゃんの心音のこと、どんな音楽もかなわないぐらいきれいな音っていってたじゃん。想像してみたんだよね、どんな音かなって。そうしてるうちに、この名前が思い浮かんだんだけど」

「いいかも。美人っぽい名前だもんね。それ、強運に導いてくれる名前なの?」

「や、わかんない。本見て決めたわけじゃないから」

「ま、強運じゃなくても、いっか。普通に生まれて普通に育ってくれれば」

「だな」

「まあ、女の子かどうか、まだわかんないけどね」

「うん。男の名前も考えておかなきゃなあ」

 楽しみにしていた有休だったが、ちょっとしたトラブルがあり、結局、三日前に延期となった。佐和子はいつも通り、一人で検診に行くことになった。

「まあ、専務も部長も、来月には必ずとらせるっていってたから、楽しみが先延ばしになったって思うようにするよ」

 孝昭は明るくいった。


 六ヵ月目に入っていた。佐和子のお腹は丸く突き出し、寝返りも打てないぐらいだった。赤ちゃんがお腹を蹴飛ばす、とかいうけれど、まだ、そこまで強い感覚はなかった。くすぐったい、ぐらいだ。美音子はおしとやかな子なのかもしれない、と早くも親ばかぶりを発揮していた。

 三、四日ほど、そんなこそばゆさが感じられないまま、検診日がやってきた。県下でも二番目に大きな産婦人科の病院へは、バスとJRを乗りついで通っている。最近は、バスや電車に乗るとすぐに席をゆずってもらえるようになった。いつものバス。隣には、小柄なおばあさんが座った。カーブで佐和子がバッグを落としてしまうと、おばあさんがよろよろと腰を曲げ、拾ってくれた。

「ありがとうございます」

「いいえ、どういたしまして」

 ゆるやかな午後の日差しが差し込むバスの中で、なんとなく雑談になった。おばあさんは赤ちゃんについて聞きたがった。

「最近は、あなたぐらいだと男のお子さんか女のお子さんか、わかるんでしょう」

「みたいですね。私はまだ知らないんですけど、なんとなく、おとなしい女の子じゃないかなって気がします」

「まあ、お母さん似なのかしら」

 おばあさんはそういって、小さく笑った。

 お腹をさすりながら、いい? 今日は先生にあなたが女の子か男の子か教えてもらう日だからね、と心の中で話しかけた。

 病院はめずらしく空いていて、ほとんど待たずに診察の順番になった。ラッキー、これはきっと、望み通り女の子に違いない、と思った。医師は佐和子のお腹に、超音波の機械をあてながらいった。

「ああ、ずいぶん成長しましたね。ここが頭、で、これが目です。で……、ここに心臓が、あれ? 心臓があるはずなんだけど、なんだぁ?」

 急に表情を硬くした。ベテランらしい頼りがいのある中年の男性で、初産の佐和子を明るくはげましてくれていた。彼は、今までこんなに深刻な顔は見せたことがない。

 眉間に深いシワを寄せながら、いった。

「おかしいなあ、心音が聞こえないですね」

「は? どういう意味ですか」

「うーん」

 はっきり答えずに、モニター画面をにらんだ。何か良くないことがおこっているのだ。膝ががくがくしてきた。次の先生の言葉まで、きっと数分だったのだろうけれど、佐和子にはとても長く感じられた。ものすごい勢いで唇が乾いていくのがわかった。

「お母さん、落ち着いてください。ご主人に連絡をとれますか」

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産む、産まない、産めない

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

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