翌月の第二木曜日に、孝昭は有休がとれることになった。カレンダーの数字を赤く囲み、楽しみにしていた。その日までちょうど三週間という夜、切り出してきた。
「おれたちの子供の名前なんだけどさあ……」
孝昭は、必ず子供の前に〝おれたちの〟とつける。
「もし、女の子だったら、美しい音の子って書いて、美音子にしない?」
「美音子……、美音子かあ。美音子、美音子」
佐和子も口に出して、繰り返してみる。
「このあいだ、佐和子が赤ちゃんの心音のこと、どんな音楽もかなわないぐらいきれいな音っていってたじゃん。想像してみたんだよね、どんな音かなって。そうしてるうちに、この名前が思い浮かんだんだけど」
「いいかも。美人っぽい名前だもんね。それ、強運に導いてくれる名前なの?」
「や、わかんない。本見て決めたわけじゃないから」
「ま、強運じゃなくても、いっか。普通に生まれて普通に育ってくれれば」
「だな」
「まあ、女の子かどうか、まだわかんないけどね」
「うん。男の名前も考えておかなきゃなあ」
楽しみにしていた有休だったが、ちょっとしたトラブルがあり、結局、三日前に延期となった。佐和子はいつも通り、一人で検診に行くことになった。
「まあ、専務も部長も、来月には必ずとらせるっていってたから、楽しみが先延ばしになったって思うようにするよ」
孝昭は明るくいった。
六ヵ月目に入っていた。佐和子のお腹は丸く突き出し、寝返りも打てないぐらいだった。赤ちゃんがお腹を蹴飛ばす、とかいうけれど、まだ、そこまで強い感覚はなかった。くすぐったい、ぐらいだ。美音子はおしとやかな子なのかもしれない、と早くも親ばかぶりを発揮していた。
三、四日ほど、そんなこそばゆさが感じられないまま、検診日がやってきた。県下でも二番目に大きな産婦人科の病院へは、バスとJRを乗りついで通っている。最近は、バスや電車に乗るとすぐに席をゆずってもらえるようになった。いつものバス。隣には、小柄なおばあさんが座った。カーブで佐和子がバッグを落としてしまうと、おばあさんがよろよろと腰を曲げ、拾ってくれた。
「ありがとうございます」
「いいえ、どういたしまして」
ゆるやかな午後の日差しが差し込むバスの中で、なんとなく雑談になった。おばあさんは赤ちゃんについて聞きたがった。
「最近は、あなたぐらいだと男のお子さんか女のお子さんか、わかるんでしょう」
「みたいですね。私はまだ知らないんですけど、なんとなく、おとなしい女の子じゃないかなって気がします」
「まあ、お母さん似なのかしら」
おばあさんはそういって、小さく笑った。
お腹をさすりながら、いい? 今日は先生にあなたが女の子か男の子か教えてもらう日だからね、と心の中で話しかけた。
病院はめずらしく空いていて、ほとんど待たずに診察の順番になった。ラッキー、これはきっと、望み通り女の子に違いない、と思った。医師は佐和子のお腹に、超音波の機械をあてながらいった。
「ああ、ずいぶん成長しましたね。ここが頭、で、これが目です。で……、ここに心臓が、あれ? 心臓があるはずなんだけど、なんだぁ?」
急に表情を硬くした。ベテランらしい頼りがいのある中年の男性で、初産の佐和子を明るくはげましてくれていた。彼は、今までこんなに深刻な顔は見せたことがない。
眉間に深いシワを寄せながら、いった。
「おかしいなあ、心音が聞こえないですね」
「は? どういう意味ですか」
「うーん」
はっきり答えずに、モニター画面をにらんだ。何か良くないことがおこっているのだ。膝ががくがくしてきた。次の先生の言葉まで、きっと数分だったのだろうけれど、佐和子にはとても長く感じられた。ものすごい勢いで唇が乾いていくのがわかった。
「お母さん、落ち着いてください。ご主人に連絡をとれますか」
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。