季節がひとつ過ぎていった。
この一週間、体調が悪い。酒を飲んでもいないのに、軽い二日酔いのような状態が続いている。胸がむかむかして、全身がだるい。初期の風邪なら、今夜はうつさないようにソファに寝なければならない。いつの間にかできあがった二人の生活のルールだった。
だるい身体をひきずって、駅前のスーパーに行った。五周年の記念セールとかで、ステーキ肉の特売をしていた。百グラム五百五十円。迷わず、それに手を伸ばし、四枚買った。今日はそのままステーキにして、明日は細かく切って野菜炒めにでもすればいい。
スポーツ選手だった孝昭は、とにかく肉が好きだ。大きな肉片ににんにく醬油をたっぷりとつけて口の中に放り込み、飲み込むように食べた。肉を焼いただけとはいえ、作ったものをおいしそうに食べてもらうと、ささやかな達成感がある。その喜びはほんの一瞬で消えてしまうのだけれども。
佐和子も肉片をにんにく醬油にひたして口にもっていった。突然、いいようのないむかつきがおそってきた。香ばしいはずの肉の匂いが、いやがらせのようだ。箸を置いて、むかむかする胸を押さえた。
その時、あ、できたんだ、と気がついた。孝昭は、佐和子の異変に気がつかず、嬉々として肉を食べ続けている。
「私の分も、食べていいよ」
自分の皿を押しやった。
妊娠に強い確信があった。具体的な理由があるわけではない。女としてのカンだ。
明日、病院にいって、はっきりしてから孝昭に伝えよう、その前に実家の母だな、などと連絡の順番を考えた。ステーキは食べられなかったけれど、いつも通りに夕食をすませた。胸のむかつきとは裏腹に、やけに冷静な自分が不思議だった。
翌日の夕食もステーキにした。孝昭が喜ぶだろうし、何しろ今日はお祝いの日である。分厚い肉をわざわざ野菜炒めにすることもなかった。
「やっほー。今日もステーキなんて、どうしちゃったんだ、我が家は。何かあったのかよ?」
「うん。あった」
「え? 何が?」
「ビッグニュース。落ち着いて聞いてくれる?」
「はあ……」
「赤ちゃん、できたの。三ヵ月目に入ってるって」
孝昭は椅子から立ち上がってガッツポーズをした。うぉーっといいながら、両手の拳を頭の上の辺りで、何度もふった。とまどうかもしれないと思っていたが、ステーキを食べるのも忘れて喜んだ。
その様子を見ていたら、じんわりと涙が出てきた。やっと、本当の夫婦になった気がした。
「何、泣いてんだよ」
そういいながら、孝昭の目も真っ赤になっている。二人は、泣きながら抱き合った。孝昭の涙が佐和子の頰を濡らした。考えてみれば、孝昭が泣くのを見たのははじめてだ。それを告げると、ぶっきらぼうにいった。
「嬉し涙は泣いたうちに入んないの」
たくさんの祝福の言葉をもらった。双方の母や父はもちろん、佐和子の弟夫婦や孝昭の妹、孝昭の会社の同僚や上司、学生時代の友人……。佐和子が連絡をしなくても、誰かが誰かに話して、何年ぶりかで電話やメールがくる場合も少なくなかった。
今まで、自分は世間から取り残されている気がしていた。孝昭を通してしか、世の中と係わっていないことに、引け目があった。それは間違いだった。自分たち家族のことを、こんなにいろいろな人が気にとめているとは思わなかった。
ためらいもあったが、奈美には自分から電話をした。妊娠という言葉を聞いて、一瞬だけ間があったが、明るくお祝いをいってくれた。
「そんじゃあ、私の時は佐和子にいろいろと聞けるね。先輩、よろしくぅ。あ、なんだったら、服とかベビーベッドとか、そのまま取っといてよ。お下がり、もらうからさ」
「じゃあ、早めに子供作ってね。うち、狭いから置いとくとこないもん」
言葉が口をついて出ると同時に、しまった、と思った。奈美は暗い声で答えた。
「あ、そうだね……。図々しいこといってごめん」
電話を切った後ははしゃぎ過ぎを反省したが、すぐに嬉しさがこみあげてくる。出産という大きな目的ができると、日常のささいなことすべてに意味があるように思えた。