私は「主婦」として夫に雇われたの?

30代半ばの主婦・佐和子は、刺激のないルーティーン化した日常を淡々と送っていた。夫・孝昭に特に大きな不満はないものの、何事にもそっけない彼の態度に、日々心の中に澱が溜まっていっていたが……。
「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤と、その周囲人々のそれぞれの人生の選択を描いた8つの短編集『産む、産まない、産めない』より「温かい水」を特別公開。

 あの日と同じように晴天だった。

 海と空の境界線がはっきりとしている。境界線は手を伸ばせば届きそうな気がするが、目をこらしてみると、遥か彼方にあることがわかった。まるで、あの子のようだ。

 佐和子は、夫の孝昭と一緒に、鎌倉の海にいた。頰に当たる風の冷たさが心地よい。そろそろコートを出したほうがいい季節だ。

 潮の香りが佐和子を包む。一年前はこんな日がくるなんて想像もつかなかった。自分が生きている限り、一生後悔と懺悔に押しつぶされそうになりながら生きていくものだと思っていた。

 右手には江ノ島が、左手には稲村ケ崎公園が見える。海にはサーファーが四、五人、浮かんでいた。

 時々、海がめくれて波がたつ。それを見ても、自分の心は波立たない。おだやかな気持ちで海を眺めることができる。波打ち際を大型犬が走っている。飼い主らしき中年の女が引っ張られるように後に続いた。他に人はいなかった。

 波の音を聞いていると心音を思い出し、海面を眺めていると温かい水を思い出した。死ぬよりつらかったけれど、今自分はこうして生きている。しっかりと自分の足で立ち、前を見ている。やっと、あの子に会いにくることができるようになった。思っていたより、自分は強いのかもしれない。

 佐和子は、そっと自分のお腹に手をあてた。まだ平らだけれど、ここには新しい命が存在している。海にいる我が子に向かって、もうすぐあなたはお姉ちゃんになるのよ、とつぶやいた。誇らしい気分だった。

 つらかった出来事をひとつずつていねいに記憶から取り出してみる。


 佐和子の携帯電話はあまり鳴らない。メールが着信を知らせるのは、たいてい夫からの事務的な連絡だ。

 四年前、結婚と同時に引っ越してきたこの街に、親しいつきあいの人はいなかった。マンションの隣の部屋は小さな子供二人を含む四人家族で、いつもあわただしく、すれ違ってもやっと挨拶を交わすぐらいだ。もう一方の隣に住む女性は一人暮らしのようだが、ほとんど見かけない。どうやら水商売の人らしい。

「知人」と「友人」のあいだに、これほど距離があるとは思わなかった。若い頃は、作ろうと意識しなくても友達はいくらでもできたのに、三十を過ぎてから、人とどうやって友人関係を築くのか、すっかり忘れてしまった。

 専門学校時代の友達である奈美から、久しぶりに電話があった。たまっていた近況報告をして、その後はささいな愚痴のいい合いになった。携帯電話の電池が切れるまでしゃべった。あわてて充電器につないでかけ直すと、久しぶりに会おうと奈美がいった。主婦だってたまには贅沢したっていいわよね、と盛り上がり、三日後にちょっと良い店でランチをする約束をした。

 約束の日の朝、佐和子は、普段は結わえている髪を後ろに流すようにブロウして、ヘアオイルをつけた。それから三十分もかけて化粧をした。きっちりアイライナーを引き、チークをのせた顔は、悪くはなかった。いつもの疲れた主婦とは違う自分が、鏡の中にいた。

 テレビの料理番組でよく見かけるシェフのフランス料理店に行った。奈美が予約をしてくれ、二千五百円のランチコースを食べた。元の食材がわからないほど凝った料理は、おいしいような気もするが、正直よくわからなかった。その店には二時間もいたが、それでも話し足りなくて、近くのスターバックスでカフェラテを飲みながらおしゃべりをした。

 片方が自分のことを話している時、もう片方は聞き役に徹して、話が一段落すると役回りを交代する。カラオケみたいだった。

「うちなんてさあ、もう一年ぐらい何にもないんだよぉ」

 奈美が笑いながらいっても、佐和子はすぐには意味がわからなかった。あいまいな笑顔でごまかした。

「だからさ、夜のほう。あれよ、あれ」

「なんだあ、そんなことか。もう、やあねえ」

 佐和子がいうと、奈美は一瞬だけ泣き出しそうに顔をゆがめてから、いった。

「そうだよね、そんなことなんだよね、そんなこと……」

 やっと帰路につき、最寄りの駅に下りたった頃には、もう夕暮れが始まっていた。駅前のスーパーに入り、迷ったけれど、総菜を二種類買った。他には、豆腐、ミョウガ、大葉。

 二割引になっていた海老と大豆のマヨネーズサラダを皿に盛りつけ、オリーブオイルをたらした。茄子の肉味噌炒めには刻んだ大葉とミョウガをちらす。自分で作ったように見せる工夫だった。総菜のパックはレジ袋で二重にくるんでゴミ箱に捨てた。

 最近はどこのスーパーでも総菜の種類は豊富だし、選べば味だって悪くない。夕方になると割引もあるから、二人分を作るより安くあがる。うまく利用すれば家計の助けにもなるのに、孝昭はそれを嫌った。ただの手抜きに見えるらしい。

 食卓には、買ってきた総菜二品と、豆腐のみそ汁、作り置きのきんぴらごぼうが並んだ。きんぴらごぼうとか肉じゃがといった定番ものの総菜はばれやすいので、避ける。総菜コーナーのものを混ぜるのにも、多少の知恵が必要だ。

 孝昭は、会社を出る前に必ずメールをよこす。

—今から帰る。

 その一言だけ。佐和子を気づかっているのではなく、冷えたビールと温かい食事がタイミングよく出てくるよう、仕向けるためだ。

 今日は、孝昭の帰宅まであまり時間がなかったので、化粧をしたまま作業をした。仕度を終え、顔を洗おうと洗面所にいったが、鏡を見ているうちに、なんとなく惜しくなった。鼻の頭の辺りのファンデーションがはげかかっている。コンパクトを取り出し、顔全体を押さえた。ついでにマスカラも塗り直し、髪をとめていたクリップをはずした。

 色とりどりの料理が並ぶ食卓を見て、孝昭は素直に喜んだ。大葉とミョウガを刻んでのせただけの茄子の肉味噌炒めを、うまい、うまい、といってあっという間に平らげた。佐和子も箸をつけたが、少し甘過ぎる気がした。マスカラをたっぷり塗ったまつ毛が重い。

「ねえ、今日の私、ちょっと違うと思わない?」

「え? 何が?」

「だからぁ、私が」

「別に……」

 孝昭はめんどうくさそうにいって、視線を落とした。

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産む、産まない、産めない

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

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