今の今を一心不乱に生きる。そなたの分もな。|疾風怒濤(一) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。

第三章 疾風怒濤

 文久二年(一八六二)十一月、孝明天皇の招きに応じ、鍋島閑叟が上洛を果たした。

 孝明天皇は閑叟を御所に招き、自ら天杯を授けるほど歓待してくれた。天皇が一大名に天杯を授けることは異例で、それほど閑叟と佐賀藩を頼りにしていることの証しだった。ちなみに天杯を受けた際の作法は、天皇が注いだ酒の入った杯を受け取り、畏れ多いので酒だけを別の杯に移して飲む。

 この時、天皇から「攘夷実行を将軍に督促してほしい」と頼まれた閑叟は、すぐに江戸に急行した。ところが幕閣は将軍上洛の支度で忙しいと言い訳し、閑叟を将軍家茂の「文武修行相談役」なる地位に就けた。それが形だけのものと分かった閑叟は、「長崎御番専心」を建前にして文久三年(一八六三)三月、帰国の途に就いた。

 結局、佐賀藩の軍事力は朝廷にも幕府にも尊重されはしたものの、この時の閑叟の上洛と江戸上府行は、政治的に大きな成果が得られなかった。

 これをさかのぼる同年正月、禁裏御守衛総督の一橋慶喜は長州藩の朝廷工作に屈し、上洛予定の将軍家茂に攘夷を要請すると朝廷に約束していた。結局、三月に上洛した将軍家茂も、五月十日を攘夷期限とすることに同意する。長州藩の支援を受けた三条実美ら尊攘派公家たちの政治的勝利だった。

 攘夷決行日の五月十日、長州藩は馬関海峡を通る外国船を砲撃するという挙に出る(下関戦争)。これにより諸外国が激怒し、全国的な攘夷戦争の可能性が大になった。

 長州藩の暴走は大きな危険をはらんでおり、それを憂慮する声が朝廷内でも大きくなりつつあった。それゆえ長州藩の暴走を案じた公武合体派公家や会津・薩摩両藩によって、政変が画策される。

 この頃、蟄居謹慎していたはずの江藤新平は、情報収集のために大木喬任と共に久留米城下に赴き、高名な志士の真木和泉に会っていた。

 真木は救援を求めてやってきた長州藩士に江藤らを引き合わせ、佐賀藩の大砲を売れないかと相談した。江藤らは長州藩士を伴って佐賀に戻って藩庁に談判し、閑叟の許しを得て大砲数門を安価で融通した。

 罪人であるにもかかわらず、江藤は自由に動き回っていた。実は前年、江藤は「京都見聞」や「藩府に答えるの書」を閑叟に提出し、他藩に先駆けて公武合体のための「国事周旋」を行うことを説いており、それが閑叟に評価され、自由な行動が許されていたのだ。

 文久三年(一八六三)七月、生麦事件の報復で英国艦隊が鹿児島錦江湾に来襲し、鹿児島城下を砲撃した(薩英戦争)。この時、薩摩藩からは佐賀藩に助力を求める使者が来たので、閑叟は快諾し、出兵の支度に入ったが、英国艦隊が上陸することはなく、出兵には至らなかった。

 こうして薩長両藩に対して恩義を売ることが、後に効いてくる。

 八月十八日、会津藩兵二千と薩摩藩兵八百が御所の諸門を制圧し、三条実美以下七名の長州派公家を締め出し、長州藩兵も堺町御門警備の任を解かれて追い払われた。

 この政変は成功し、京都に駐屯していた長州藩兵は、公家たちを連れて国元に引き揚げることになる(七卿落ち)。

 京都政界は、前越前福井藩主の松平春嶽や薩摩藩主後見役の島津久光ら公武合体派が主導権を握り、開国政策を推し進めようとしていた。この時、島津久光から閑叟に上洛要請の使者が来たが、閑叟は病で動けず、中央政界で地位を築く好機を逃した。

 実は、この頃から胃カタルなどの病に悩まされていた閑叟は、若い頃の英気を失いつつあった。


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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切...もっと読む

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