金は取られても命までは取られまい。 |意気軒高(一) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。

 人との出会いは偶然ではない。何かを求める者の前に、天は人を連れてくる。

 大隈がそれを痛感し、その後の人生においても人との出会いを大切にするようになるのは、佐賀という狭い世界を抜け出し、長崎に来てからだった。

 —何をどうすればよいのだ。

 文久元年(一八六一)の一月下旬、飛び出すようにして長崎に出てきたものの、何をしていいか分からない。副島からは、「先々創設する英語学校の教師を探せ」という指示を受けているが、その方策までは聞いていない。

 その時の勢いで義援金と称するものを皆からもらったが、全部で一両にもならず、どれだけ過ごせるか分からない。

 それでも副島が手を回してくれたので、藩邸に居候できることになったのは助かった。これで雨露を凌げるし、飢え死にすることもなくなった。

 大隈は、それだけで気が大きくなっていた。

「情報は寝て待っていてもやっこない。足で稼ごう」と思った大隈は、とりあえず長崎の町をぶらつくことにした。

 長崎の地は佐賀藩領と国境を接しているが、日本の表玄関ということもあり、幕府は長崎奉行所を置いてオランダとの貿易を管理させていた。そのため江戸時代を通じて、長崎での貿易は幕府が独占することになるが、安政六年(一八五九)六月、安政五カ国条約で長崎が開港場となってからは、諸藩も独自の取引ができるようになった。それ以来、長崎には多くの外国人がやってきて、あたかも国際都市の様相を呈するようになっていた。

 来日した外国人には、居留地内での信仰の自由が許されたため、多くの宣教師が海を渡ってきた。それでも布教活動は許されていないので、彼らは医療活動や語学教授を通じて、日本に浸透を図ろうとしていた。例えば英語のテキストに聖書を使うといったことで、うまく布教に結び付けようというのだ。

 —たいそうな賑わいだな。

 長崎港付近の雑踏を歩きながら、大隈はさらに強く英語を学ぶ必要性を感じていた。というのも周囲から聞こえてくる言葉は、蘭語ではなく英語だからだ。

 —さて、どうするか。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への...もっと読む

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コメント

maito0405 ああ、やっぱり大隈は大隈だな(苦笑) 10ヶ月前 replyretweetfavorite