十二
井伊大老が襲撃される二カ月ほど前の安政七年(一八六〇)一月、不平等条約として悪名高い日米修好通商条約の批准書を交換すべく、幕閣は新見豊前守正興を正使とした遣米使節団七十七名を米国に向けて出発させた(護衛艦の咸臨丸の乗員まで含めると百七十人余)。万延元年遣米使節団である。
この使節団は、諸外国と条約締結後、幕府が初めて正式に海外に派遣したもので、批准書の交換のほかにも、未知の西洋文明を知り、それを日本国内に伝えていくという重大な使命が託されていた。
使節団の中には七人の佐賀藩士がいた。運用方として蒸気船の運航知識を学ぶために派遣された本島喜八郎ら五人と、佐賀藩出身ながら幕府御雇医師の川崎道民、そして米国の政治体制や諸制度を学ぶために派遣された小出千之助のつごう七人だった。
九月、使節団は訪米の目的を達成して帰国し、翌月には小出も国元に帰ってきた。
鍋島直正や重臣たちへの帰国挨拶と報告が終わった後、小出の家には土産話を聞こうという連中が引きも切らず押しかけていた。
その中の一人に大隈もいる。
小出は天保三年(一八三二)の生まれなので二十八歳。大隈より六歳年上になる。小出はすでに蘭学寮指南役に就いており、蘭語については大隈よりも数段上だった。
すでに三十人ほどの老若男女が小出家に詰め掛けていた。その中には、近所の子供もいたが、彼らは話が聞きたいわけではなく、何やら賑やかそうなので集まってきただけのようだ。
やがて城から戻ってきた小出が、自宅の外まで遠巻きにしている者たちを見て驚いた。
「皆、少し休ませてくれないか。一刻後、弘道館の講堂に集まってくれ」
その言葉でいったん散会になったので、大隈と久米は大隈家で昼飯を食い、弘道館へと向かった。その途次も多くの若手藩士たちが、列を成して弘道館を目指していた。その中には商人や農民らしき者までいる。武士階級以外の者たちも、藩主直正の勉学奨励策によって、こうしたことに関心を持ち始めたのだ。
弘道館の講堂には、三百名あまりの人々が集まっていた。
「こいつはまいったな。座る場所もないな」
「それだけ皆、興味を持っているということです」
二人がようやく座に着くと、登城した時と変わらぬ裃姿のまま小出が現れ、教壇に立った。
こうした点で小出という男は礼節をわきまえている。つまり大隈など足元にも及ばない優等生なのだ。
「まずは、これを見てくれ」
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