十一
桜田門外の変による世情の動揺も収まってきた四月、藩主の鍋島直正が国元に帰ってきた。
井伊直弼と親しかったことから、命を狙われる心配があったため、直正は万が一に備えて国元に戻ることにした。それゆえ、わざわざ国元から送り込んだ「腕の立つ警固役三十人」も一緒に戻ってきた。その中には空閑次郎八もいた。
空閑は初めての江戸を楽しむどころか、直正と言葉を交わすこともなく、とんぼ返りさせられることになった。
その直正だが、帰国するや否や蘭学寮へ行くと言い出した。
四月下旬、前日から教師も学生も総出で校舎の隅々まで掃き清め、当日、生徒たちは整列して「われらが殿」を出迎えた。
鍋島直正はこの時、脂の乗った四十四歳。その慧眼は内外から高く評価され、外様諸藩の藩主の中でも、すでに重鎮の域に達していた。
大隈はこれまで何度も直正の姿を見ているが、言葉を交わしたことはない。
直正の背後からは小姓、重臣、近習に続き、弘道館の生徒らしき十代半ばから後半の者たちが五十名ほど続いている。
蘭学寮の中庭に設えられた床几に座した直正は、居並ぶ者たちを前に訓辞を垂れた。
「今、この国は未曽有の国難に襲われつつある。知っての通り、不逞浪士によって井伊大老が殺され、幕閣も動揺している。だが、こうした時だからこそ、有為の若者たちは肚を据えて勉学に励んでくれ。政治情勢の変化に落ち着かぬ日々を送っているとは思うが、藩の舵取りは、われら老人の務めだ。若い者たちは次の時代の担い手となることだけを考えてくれ。とくに蘭学は最も大切な学問だ。蘭語と蘭学を学ぶことで、藩の未来が開けてくる。これからも、いっそう奮励努力してほしい」
直正は訥々とした口調で、こうした趣旨のことを告げた。
続いて鍋島安房が話を替わった。
「向後、蘭学寮を弘道館の傘下に収め、優秀な者を選抜して蘭学寮に移すことにした。さしあたり諸組侍(手明鑓以上の藩士)の若者のうち、十七歳から二十五歳の者を五十人ばかりを二年間ほど移すことにした」
どよめきが起こった。そして皆の視線が大隈に向けられた。
——ようやく分かってくれたか。
かつて大隈が身をもって主張していたことが、現実となったのだ。
傍らにいる久米が肘でつつく。
「八太郎さんの望みが叶いましたね」
「ああ、当然のことだ」
これにより佐賀藩の藩学方針は、一気に洋学へと傾いていく。
——もはや朱子学や『葉隠』の時代ではないのだ。
精神修養も大切なことだが、より実践的な学問が、なくてはならない時代になったのだ。
その時、直正が手にしていた扇子で前方を指した。
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