十
神陽邸での会合が終わり、皆はそれぞれの思いを抱いて散っていった。
大隈はさらに詳しい話が聞きたいと思い、中野方蔵の後を追った。中野は旅慣れしているためか歩くのが速い。後方から小走りになって追いついたが、中野が歩度を緩めないため、大隈は息を切らしながら問う格好になった。
「中野さん、江戸はたいへんなことになっていますが、殿は大丈夫でしょうか」
「分からんな」
元来、中野は素っ気ない男だが、そのくらいでめげる大隈ではない。
「井伊大老と親しかったというだけで、水戸藩士や不逞浪士に狙われるのですか」
「親しかったどころではない。肝胆相照らす仲と言ってもよい」
直正と直弼は人間的にも気が合ったらしく、気宇壮大な海軍国構想を描いていた。天草島を一大造船・海軍基地とし、そこを日本艦隊の根拠地とし、アジア諸国に乗り出していこうという事業計画や、蝦夷地と樺太を開発する件などを大いに語り合っていた。だが直弼の死により、二人が描いていた海軍国構想は水泡に帰してしまった。
「そうだったんですか。実に残念ですね」
「ああ、井伊大老にも悪いところはあったが、ほかの老中連中に比べれば、しっかりと先々を見据えている人だった」
「今、中野さんは『井伊大老にも悪いところはあった』と仰せでしたが、それはどんな点ですか」
中野が歩度を緩めず答える。むろん息は切れていない。
「開港策はいい点ばかりではない。安政五年(一八五八)の通商条約締結による開港により、外国商人が生糸を大量に買い付けるようになった。これにより養蚕や製糸を行っている地域は大いに潤った。ところが、それが農産物の価格を上昇させ、下級武士や町人たちの生活を圧迫したのだ。つまり彼らは開国を悪いものとして憎み、攘夷論に与するようになった。さらに日本では金の価格が銀に比べて安かったので、外国人たちは争うように金を買い付けた。これに慌てた幕府が小判の金の含有量を減じたため、すべての価格が高騰するという悪循環を招いてしまった。それが開国の実像さ」
「では、中野さんは開国に反対なのですか」
中野は初めて歩度を緩めると、大隈をにらみつけた。
「よいか。わしは佐賀藩士だ。攘夷論にも同情の余地はあるが、藩の方針に逆らうつもりはない」
「尤もなことです」
「だが、このまま開国を進めれば、この国がひどいことになるのも自明の理だ」
——江藤さんと同じ考えだ。
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