まさか、そこまでやるとはな」 |気宇壮大(九) 1

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚!
早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は
どのような人物だったのか?
幕末の佐賀藩に生まれ、
明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切り拓いた男の思想と生涯とは。
青年期から最晩年まで、
「走る人」「闘う人」「創る人」「聞く人」として駆け抜けた、
令和版大隈像をお楽しみください。

 大隈ら三人が枝吉邸に駆け込むと、すでに神陽たちは車座になり、深刻な顔をしていた。

 —やはり変事が起こったのだ。

 そこにいたのは、神陽を中心として、弟の枝吉二郎、大木民平、島団右衛門とその弟の重松基右衛門、江藤新平、そして旅姿の中野方蔵らだった。

 三人は義祭同盟では若手なので、縁先に腰掛けて神陽たちの話を聞く態勢になった。

 この年の一月、長らく病床に臥していた神陽と二郎の父・南濠が亡くなった。そのため二郎は一時的に帰国していた。この後、二郎は副島家に養子入りし、二郎種臣と名乗ることになる。

 一方、中野方蔵は足軽階級の出身だったが、幼い頃から優秀で、それが実って昌平黌への遊学を許可された。学びながら諸藩の動静を探るという役割だが、長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞、さらに儒者の大橋訥庵の影響を受け、佐賀藩でいち早く尊皇攘夷思想に目覚めた一人だった。

 大隈らの後にも、枝吉邸に駆け込んでくる義祭同盟の加盟者が後を絶たない。遅れてきた者たちは、そのまま庭に立って話を聞いた。

「まさか、そこまでやるとはな」

 神陽がため息をつくと言った。

「まだ聞いていない者もいるだろう。中野君、もう一度、皆に話を聞かせてやれ」

「はい」と答えて、中野が庭に向かって言う。

「この三月三日、井伊大老が江戸城の桜田門外で殺された」

「あっ」という声の後、どよめきが広がる。

 —事態はそこまで進んでいたのか。

 大隈にとって暗殺の善悪よりも、これで時代が音を立てて動き出す予感がした。

「下手人は誰ですか」

 誰かの質問に中野が答える。

「水戸藩脱藩浪士十数人と薩摩藩士一人だ」

 この事件は、関鉄之介をはじめとした水戸藩尊攘派の脱藩浪士十七人と薩摩藩脱藩浪士一人によって行われた。

 方蔵が事件の概要を説明する。

 安政五年(一八五八)、幕府は日米修好通商条約を締結し、開国路線をひた走っていた。それを主導していたのが大老の井伊直弼である。だが安政七年(一八六〇)三月三日(万延元年は三月十八日から)、江戸城桜田門外で井伊が殺害されることで、にわかに情勢は不安定になる。

 江藤が間髪入れずに問う。

「この事件で何が変わる」

「まず一橋派が復権するだろう」

 一橋派とは水戸斉昭・慶喜父子、徳川慶勝、松平春嶽、伊達宗城、山内容堂らのことだ。彼らは将軍継嗣問題で慶喜を推していた者たちで、十四代将軍の家茂を推していた井伊直弼と対立し、隠居や蟄居謹慎処分にされていた。いわゆる安政の大獄である。

「一橋派が復権するとどうなる」

 江藤が鋭い眼光で問う。

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威風堂々 幕末佐賀風雲録

伊東潤

豪腕作家として知られる伊東潤が描く、大隈重信の成長譚! 早稲田大学の創始者で、内閣総理大臣を2度務めた大隈重信という男は どのような人物だったのか? 幕末の佐賀藩に生まれ、 明治期に藩閥政治から立憲・政党政治への道筋を切...もっと読む

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コメント

kumabouroMM https://t.co/6PgUWTCXDq 昨日読めてなかったので、、、 時代が動く音がしてきましたね、、、 18日前 replyretweetfavorite