「お前は負けず嫌いだから人に劣っている分野の学問があれば、そればかり懸命に勉強するだろう」
久米が素直にうなずく。
「はい。当然のことです」
「それが間違っているんだ」
「何が間違っているんですか。学問とは、そういうものではありませんか」
「では、ここを読んでみろ」
大隈が抱えていた蘭書の一冊を開き、それを久米に示す。
そこには「人の長を長なりと認め、己が短を補う。人間の発達とは、そこから始まる」と書かれていた。
「つまり、不得手なものを捨て、得手なものに力を注げというのですか」
「そうだ。己が不得手と思うものは他人の頭で補う。そうすれば不得手なものを学ぶことに使う時間を得手なものを伸ばすのに使える」
久米が渋い顔で言う。
「何だか言い訳じみていますね」
「言い訳ではない。要は無駄を省き、得意に力を注ぐことで、得意の分野で突出できる。それは、わが藩の姿勢と同じだ」
佐賀藩では、持てる資源を鉄製大砲と蒸気機関の製造に集中させることで、他藩に卓越する技術力を身に付けることができた。
「なるほど。一概に否定はできませんね」
「そうだ。人の一生などたかがしれている。われらは若いから、己が死ぬなど考えもしない。だが四十を過ぎれば、自ずと死と向き合わねばならない。それほど、天がわれらに託した時間は短いのだ」
大隈の脳裏に、父の面影が浮かんだ。父は大隈が十二歳の時、剣術稽古の最中に脳出血で急死した。数えで四十七歳だった。
——さぞや無念であったろうな。
大隈の父は石火矢頭人という長崎御番の要となる仕事をしていた。鉄製大砲の開発に携わっていたわけではないが、人生を断ち切られるように終わらされたことに、無念の思いを抱いたことだろう。
「久米よ、そなたは長く生きたいか」
「そいつは無理な相談です。私は幼少の頃から蒲柳の質で、片息(喘息)という持病もあります。たいして長くは生きられないでしょう」
久米が皮肉な笑みを浮かべる。
「だったら得意に力を注ぐのだ。そなたは何を得意としている」
「私の得意というか好きなことは地誌ですね。地誌を学ぶと世界の広さが実感できます」
「それなら、地誌については誰にも負けないほどの知識を付けるのだ。そのうち殿が海外渡航させてくれるやもしれぬぞ」
「そうですね。蘭語で書かれた地誌を縦横に読みたいものです。そしてそれを日本語に訳し、世界のことを伝えていきたいと思っています」
久米の顔が輝く。
「つまり教師になるのか」
cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。