ずっと伴走してくれた母の存在
16歳ではじめて産婦人科を訪れてから、出産を経験する30歳まで、私はずっと産婦人科に通い足りないホルモンを補う薬を飲み続けてきた。授乳を終えたら、その治療を再開するつもりだ。自分の疾患をすっかり受け入れた今、薬を飲むことは習慣になっている。
それでも振り返ってみると、高校生から、大学、社会人になってからも、目の前のことに夢中で、産婦人科に通って毎日薬を飲んでまでして、わざわざ生理を起こすことを面倒に思ったことは何度もあるし、しばらく放置していた時期もある。
でも、その度に母から「ちゃんと病院行った? 生理起こしてる?」と電話があった。
「現代の医療をもってすれば、大丈夫だから。ちゃんと治療をしていれば、子どももできると思うよ」
もちろんどれだけ治療をしても子どもを授かる保証はない。母はそのことをわかっていたし、むしろ授かる可能性は低いと思っていたようだけれど、何の根拠も持たずに私にそう、何度も言っていた。
正直、うっとうしく思うこともあったけれど、母のこの言葉がなければ、私は治療を続けることもなく、自分で子どもを産むことを早々にあきらめていたかもしれない。
この本を書くにあたって、母に私に生理がないことをどう思っていたか、改めて聞いてみた。母は、私に生理がないことはおそらく先天性のものだから、自分に責任があるのではないか、なんで女性としてちゃんと産める身体に産んであげられなかったんだろう、と幾度も自分を責めたそう。実際には私以上に「産めないかもしれない」と危惧していたけれど、その気持ちを一切見せずに「大丈夫」と言い続けてきたのは、私に不安を抱いてほしくなかったから。
「自分のことならなんとかなる! と思えるんだけど、子どものことになると、どうしても弱気になって、心配になっちゃってね。でもそれを子どもたちには見せられないから、気丈に振る舞うんだけど。瑠里香の身体のことも、正直"産める"よりも、"産めない"確率のほうが高いと思ってたけど、私がそんな気持ちでいちゃいけない、少しでも可能性があるならできることはしたい、と思ってね」
この時はじめて母の弱音のようなものを聞いた気がする。私が基本的に「なんとかなるだろう」と楽観的に構えていられたのは、母の根拠のない「大丈夫」があったから、私が治療をやめなかったのは、いつか私も母のように大切な誰かを励ます存在になりたいという心持ちがあったから、かもしれない。
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