ナチス式敬礼
「ヘイ!」田畑政治は、まるでタクシーでも止めるようにヒトラーに呼びかける。一方、傍らの通訳のヤーコプは、ヒトラーの姿を見てあわてて「ハイルヒトラー!」とナチス式敬礼をする。
階段を上りかけていたヒトラーは、いぶかしげに向き直る。田畑はそのヒトラーに、日本語で言う。「ヒトラーさん、オリンピックを東京に…」。総統でも閣下でもなく「ヒトラーさん」。田畑は、相手がヒトラーだろうと高橋是清だろうと犬養毅だろうと、子供が見知らぬおじさんに話しかけるような口調になってしまう。
田畑はそこでいったんことばを区切り、通訳を求めるようにヤーコプを見る。しかし、ユダヤ人のヤーコプは、訳すどころか、直接ヒトラーにことばを語ることもできない。「んだよ、もう。いいよ!」田畑は階段を駆け上がってヒトラーに近づく。あわてて制止しようとする将校に対して、ヒトラーは「離してやれ」と命じ、田畑に続きを言わせる。
「ヒトラーさん。オリンピックを東京にナニする件では、アレしてもらって、ダンケシェン」。
ナニアレだらけの意味不明な日本語と「ダンケシェン」を聞き終えたヒトラーは、階段の上から無言で右手を差し出す。「あ…」ヒトラーの予想外の動作に田畑は思わず階段の下から右手を差し出す。自然と腕を掲げる形になっている。その掲げられた手をヒトラーはさらに左手で包み込み、まるで空中に固定するかのようにぴたぴたと叩いて去る。一瞬のスキンシップで人を魅了しておいて、魅了された者をすばやく置き去りにする独裁者の手つき。
田畑のような無礼な人間に、なぜヒトラーは手を差し伸べたのか。それが独裁者の度量というものだ、というのが簡単な答えだろう。
しかし、この場面のラストショットを見たわたしは、全く別の力を感じている見る。置き去りにされた田畑の腕は、いつの間にかナチス式敬礼の形になっている。そればかりではない。階段下で、通訳のヤーコプが、右腕を掲げている。彼は、田畑とヒトラーのやりとりの間中ずっと、このナチス式敬礼をしていたのだ。ヤーコプの敬礼は、ヒトラーと彼の間にいる田畑の無礼さを帳消しにするように、ずっと維持されていた。だからかろうじて、田畑はヒトラーから手を差し伸べてもらうことができたのではないか。
ヤーコプの敬礼は、田畑の無礼を救っただけではない。田畑に、ナチスの力を発射した。背後からはヤーコプの敬礼の線が、階段上からはヒトラーから伸ばされた腕の線が、田畑を貫いた。その結果、階段下のヤーコプだけでなく、階段上の田畑までもが、まるでヒトラーへと見えない線を伸ばす、ナチスの鉄塔と化したのである。
マルタの怖れ
二百メートル平泳ぎのドイツ代表、マルタ・ゲネンゲルもまた、ヒトラーのスキンシップに魅了された1人だった。
前畑秀子との決勝直前、ヒトラーはマルタの控室を訪問し「金メダルを期待しているよ」と声をかける。「はい、必ず取ります。総統の言葉で私はがんばれます」とマルタが答えるとヒトラーは「がんばりなさい」といいながら、彼女の頬を右手でなでた。
この時点では、マルタにとって、ヒトラーは、個人的な場面で思わぬ人情を見せるあこがれの人にみえたかもしれない。
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