脚本・宮藤官九郎、音楽・大友良英、チーフ演出・井上剛、大注目のNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」第34回「226」。1936年2月。陸軍の青年将校らによるクーデター、二・二六事件が発生。閣僚らが暗殺され、田畑政治(阿部サダヲ)の勤める新聞社も襲撃を受ける。戒厳令下の東京でオリンピック招致活動を続けることに田畑は葛藤。嘉納治五郎(役所広司)とも対立するが、IOC会長の候補地視察の案内役を任せられる…
二・二六とはどんな事件だったか。皇道派による大規模なクーデターか。血盟団事件や五・一五に続くテロリズムか。「昭和維新」の断行か。
「いだてん」では、それは、何よりも暴力による中断として描かれた。
東京朝日新聞社を襲撃した兵士たちは、新聞の武器である活字ケースをひっくり返した。暴力にはとんと縁のない田畑政治は、ロサンゼルスの写真を踏みにじられ、将校に飛びかかり、銃床でなぐられた。それを真顔で見続けていた志ん生は、サゲも言わずに高座を降りてしまった。あとを引き受けた五りんは、客のリクエストに応えて「目黒のさんま」でご機嫌を伺うが、ドラマの凍り付いた空気は戻らない。当時の放送局では、26日、演芸番組が中止され、ようやく事の次第の一部が報道されたのは夜の8時15分だった。
そして、戒厳令下の陰鬱たる雪景の中、IOC会長のラトゥールが予定通りやってくるという報せが、田畑にもたらされる。こんな展開が冒頭10分間続き、見ていたわたしは正直、ここからどうやってオリンピックの話へとドラマを展開できるのか、見当もつかなかった。
煙草の反転
田畑はとにかく出かける支度をしようと、まずは煙草に火をつけて深く吸い込む。が、吐き出す息は乱れている。動転しているときの彼の癖で、煙草の吸い口を灰皿の内側に向けて置き、窓際に近づく。
妻の菊枝は、「シャツ、アイロンかけますから少し待って」と言いながら、田畑の見えないところで、煙草をそっと逆向きにする。この小さな動作を、カメラは謎をかけるように、アップで撮る。
「俺は、怖い…。是清さんも、犬養さんも、俺が関わった政治家は次々に殺された」。田畑は手元を確認もせず煙草をとって一口吸う。「話せば分かると言った犬養さんは話の通じんやつらに殺された。ロサンゼルスの年だ。その4年後、ベルリンの年に是清さんが殺された」。オリンピックは、死の連鎖として捉えられ始めている。煙草の吸い口が、内側に置かれる。「次は誰だ!? 緒方さんか? 河野か? 俺か!?」
「そのように考えてはいけません」。まるで間違った方向に走っている模型列車を逆向きに置き直すように、菊枝は、煙草を再び逆向きにする。そして、木箱を黙々と風呂敷に包む。
田畑は菊枝の動作に気づかぬまま、灰皿の煙草を再び手にとる。
「記者になどなるんじゃなかったよ」田畑は奥のソファへと移動する。手前の菊枝は、田畑の理屈を背中できいている。「記者じゃなかったら、もっと能天気オリンピックに邁進できた。なまじ政治に片足突っ込んでるから齟齬が生じる。『こんな時だからこそオリンピック』の『こんな時』がどんどん悲惨な状況になっていくのを記者の田畑は見過ごせない」。
田畑が話している間、菊枝は「こんな時だからこそオリンピック」ということばに合わせて手元で風呂敷包みをしばっている。実はわたしはこの場面を見ながら、さっきから菊枝が包んでいるこの木箱がなんなのか、気づいてはいなかった。
「だったら」菊枝がおもむろに言う。「やめたらどうです?」
「やめる? 記者をかね?それともオリンピックをかね!?答えろ、おい! それによっちゃ、たとえ君でも」 「どちらにせよ、あなたの忙しさが半分に減る。夫婦の時間が増える。新婚旅行にも行ける」。
「いや…」田畑はまるで「マーちゃん」と呼びかけられたときのように狼狽する。そしてまるで仕掛けてあったかのように、田畑の手元に煙草の火が届く。「あっつ!」
「タバコの本数が減る。わたしにはいいことばかりです」。
「悪いことは何だ!?えっ?来ないんだぞ。あれが、東京に。あの興奮や、感動を知らずに、君は死ぬのかね!?えっ?」
最後まで燃え続けた煙草と菊枝のことばが、田畑の「あれ」に火を着けた。「冗談じゃない、新婚旅行なんかいつでも行ける!」
実を言えば、実行委員会に向かい、嘉納治五郎と会う前に、もう田畑の結論は出ていたのだ。外はまだ戒厳令で、兵士たちが銃剣を構えていたけれど、田畑の頭はもう、「あれ」に向かっていた。だから、寝てないし、怖いし、死にたくないけれど、治五郎と口論になった田畑は、我知らず、壁に掲げられた日の丸と五輪旗の前に、招致されるように立っていた。委員会室の中でいちばん広い、ぽかんとしたその空間は、椅子に座った治五郎の背後に広がっている。それは、明治のある日、ライトマンとしてクーベルタンから選ばれて以来、治五郎の抱いてきた、壮大な夢の空間だった。
田畑はそのからっぽの空間に立ち、五輪の旗に向かって抗うかのように腕を振り上げかけて、しかしそこに立ってしまえば、もうこう言うしかなかった。
「でもやりたい!」
そして田畑の声は、治五郎の後ろ頭に着火した。治五郎は、もうこう言うしかなかった。
「やれるとかやりたいとかじゃないんだよ…やるんだよ!」
田畑は弾かれたように、もう後ろ向きな発言はしませんと、持参した包みを開ける。そこで、ようやく見る者は箱の中身が何であったか気づく。それは黒、黄、赤、ベルギーの三色旗だ。そういえば、今回の冒頭、菊枝が明け方に内職をしているところがちらと映っていたではないか。そして、田畑家で、マーちゃんが「こんな時だからこそオリンピック」と悲観するように言っていたとき、菊枝が無言で包んでいたのも、この三色旗だったのではないか。牛塚虎太郎が感に堪えぬように言う。「いい奥さんだなあ…」
菊枝が魔法をかけた。菊枝がマーちゃんの内向きの悲観をひょいと外向きに変えるように煙草を置き直し、黙って旗を包んだあのとき、田畑は、ラトゥールを迎える旗をすでに胸に抱きつつあった。そして、ドラマを見るわたしたちもいつの間にか、戒厳令下の東京にIOC会長を迎えるというおよそありえない(しかし史実の)筋書きを、受け入れる構えになっていたのである。
清さんの迂回、幾江の反転
今回は、長くこのドラマを見続けてきた者にとって、みどころの多い回でもあった。
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