夫婦というのはまだ家庭としては不完全だ

31歳のサラリーマン・雄二は、5歳年上の開業医の妻とマイペースに暮らしていた。ある日、ついに子どもを授かったと知らされる。喜びをかみしめる雄二だったが、妻から「育児休暇をとってほしい」と言われ、戸惑う。会社ではなかなか上司に言い出せず……。
「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤と、その周囲人々のそれぞれの人生の選択を描いた8つの短編集『産む、産まない、産めない』より「次男坊の育児日記」を特別公開。
(カバーイラスト:近藤圭恵 / モノクロイラスト:オカダミカ)

 季節は夏を迎え、安定期に入った。今日香さんにそう告げられて、うれしさの中に、正直にいえば、そこにほんの少しだけ気の重さが混じっていた。いよいよだ、と思った。いよいよ、石倉に育児休暇が欲しいといわなければならない。

 石倉の機嫌を推測し、切り出すタイミングを見計らった。石倉を観察していると、あらためてそのエネルギッシュな仕事ぶりに驚いた。絶えず何かを話している。下手をすると、目の前の人と話しながら、電話の相手に応えていることもある。書類に目を通す時は、目玉がものすごい速さで動いている。なかなか隙がなかった。

 できれば、人目のない時に切り出したい。

—あの、ちょっとお話が。

 この一言がこんなにむずかしいものだなんて、知らなかった。結婚の報告をした時はどうしたのか、すっかり忘れてしまった。

 石倉が幹部会議から戻ったところを、なんとか廊下で捕まえた。

「あのう、ちょっとよろしいでしょうか」

「なんだよ、お前あらたまって。なんか、ミスでもやらかしたか?」

「いえ。ええっと……、実は……、妻が妊娠いたしまして」

「そうか。それはおめでとう! 良かったじゃないか。これで、やっと重松も一人前だな。いやあ、良かった良かった」

「はあ。で、そのう……」

 雄二の言葉をさえぎって、石倉は続けた。

「いいか。夫婦というのはまだ家庭としては不完全だ。子供が生まれて、それこそが家庭なんだぞ。そうなれば、きっと、今までより仕事にも身が入るさ。いやあ、男には、やっぱり責任ってものが必要だからなあ」

 肝心なことをいい出せなくなってしまった。


 今日香さんは、家ではあまり仕事の話をしない。職業柄、仕事場を出たら患者については話さないように訓練されているのだという。それでも、会話からは時々、不妊で悩んでいる人たちのつらさがこぼれ落ちてくる。

 夫婦だけでは家庭として不完全。石倉のこの言葉を、その人たちが聞いたら、どんな気持ちになるだろう。石倉に悪気はない。自分や自分の周囲をはげまそうとするあまり、他者への配慮が欠けてしまうのだ。邪気がない分、たちが悪い。大人の無邪気は時として他人を傷つける。

 それからの石倉は、雄二がミスをすれば、こんなふうに𠮟った。

「そんなことじゃ、ちゃんとした父親にはなれないぞ」

「子供は父親の背中を見て育つんだ。しっかりしろ」

 逆の場合はこうだ。

「うん、やっぱり親になる自覚が出てきたやつは違うな」

「責任は男の顔を作る。重松も、最近、男の顔になってきたんじゃないのか」

 石倉の声はよく通った。雄二が父親になることをからめて石倉が何かいう度に、峰岸は不思議そうにこちらを見た。ついこのあいだまで、きっと自分もああいう顔をしていたのだろう。

 石倉だけではなかった。みんな口々に、お祝いの言葉をくれる。育児休暇のことをいい出しにくい雰囲気が、日に日に濃くなっていった。

 家に帰ると、毎日のように、今日香さんが会社に育児休暇を申請したかどうか聞いてくる。雄二が言葉を濁すと、心の底からがっかりした、という表情になった。一ヵ月近くそんな日が続いて、とうとう怒り出した。

「のらりくらりとかわして、雄二は本気で育児休暇をとろうなんて思ってないんでしょう。そりゃあ、そうよね。私だって、大学病院の時にそんなもんとってる男の人、みたことないもん」

「そんなこと、ないよ。ただ、こういうことはいい出すタイミングがむずかしくて……」

「そんなの、いいわけよ。嫌なら嫌だとはっきりいってくれればいいじゃない。こうしているあいだだって、お腹の子はどんどん育ってるんだよ。十一月には生まれてきちゃうの。雄二があてにならないなら、誰か探さなくちゃいけないんだから」

 せっぱつまって、いらだちをこちらに投げつけている。ささいな喧嘩はあったけれど、今日香さんのこんなきつい態度ははじめてだ。雄二がどうしていいのかわからずに黙ったままでいても、彼女は、眉間にシワを寄せ、ぶつぶついっている。

—じゃあ、今日香さんが仕事やめたらいいじゃないか。僕が食わせてやるよ。

 そういってみたくなった。石倉の影響だろうか。

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Instagram_miii この上司みたいな人が多いから少子化になってしまうのだと思う。 約2ヶ月前 replyretweetfavorite