僕も食わせてくれるかみさん探そっかなー」

31歳、いたって普通のサラリーマン・重松雄二の奥さんは、5歳年上の開業医。そのことでよく同僚からからかわれるが、自分たちのペースでやっていけばいい、と思っていた。ところが、ある日その状況を一変する出来事が……。
「産む性」として揺れ動く女性たちの心の葛藤と、その周囲人々のそれぞれの人生の選択を描いた8つの短編集『産む、産まない、産めない』より「次男坊の育児日記」を特別公開。
(カバーイラスト: 近藤圭恵 / モノクロイラスト: オカダミカ)

朝起きて歯を磨いた後に取りかかるのは、生まれたばかりの長男の写真を撮ることだ。朝のたっぷりとした陽光が、小さな生き物をもっともきれいに写してくれる。重松雄二には写真の心得はなかったが、毎日撮っているうちに、いろいろなことがわかった。

 毎日撮っていても、毎日顔が違う。生後一ヵ月ほどの赤ちゃんは、十日も前の写真と比べると、髪の量も目鼻立ちも肌の質感も身体の大きさも、明らかに変わっている。育児ブログを始める前は、まだ言葉も話せない赤ちゃんや同じことを繰り返すだけの育児について、毎日書くことがあるのだろうか、と雄二は思っていた。それは大きな間違いだった。

 日々、変化にみちている。

 一眼レフカメラを構える仕草も、我ながら様になってきた気がする。はじめはたいていベビーベッドの真上から撮っていたが、試行錯誤して、いくつかの気に入ったアングルも覚えた。ベッドの角から、まだ地面を踏んだことのないすべすべの足の裏を撮るのも、好きな角度だった。

 朝食を終え、奥さんを送り出すと、掃除、洗濯が待っていた。昼食の後、パソコンに向かいブログに取りかかる。今のところ、これが雄二の仕事だった。


 育児休暇をとる前、花見と称した会社の宴会の最中、雄二はふと祖父の言葉を思い出した。

 去年の春のことだ。

—人爵をつけず。

 多少の悪さをしてもいい、友だちに人爵をつけるようなことだけはするな。

 雄二は祖父から、何かにつけてそういわれた。子供には、ジンシャクなんて言葉の意味はわからなかったが、祖父が伝えようとしていたことは、ぼんやりと受け止めていた気がする。祖父は今年で八十七歳。認知症がすすんでおり、最近は、雄二と雄二の父との区別もおぼつかない。

 桜の名所である公園だった。そこらじゅうに青いビニールシートが拡げられ、雑然とした会話が飛び交っていた。雄二の所属する人事部の飲み会だ。

 みんな酔いながらも、立ち回りを気にして、酒を注いだり注がれたりしている。桜の不気味な美しさを気に留める者は、ほとんどいない。

 部長の石倉は、赤い顔をして熱弁をふるっている。いつも通りの内容だった。仕事とはどういうものか、会社の現状がいかにひどいものか、その中で自分がどれぐらい使命に燃えているのか。そして、日本の政治家のふがいなさを嘆き、のってくると、男たるものどう生きるべきかを語るのだ。

「要するに、だ、結局、自分の人生の目的をどうするかってことだよ。つまりは死に様だ。男っていうのはな、家族を安心させて死んでいかなきゃならん。わかるか?」

 最後は、いつもこんな言葉の繰り返しになる。みんなうんざりしながらも、一応うなずいたり相槌をうったりしている。惰性で流れたカラオケボックスにいる気分だった。つばを飛ばしながらの石倉の熱弁は、雄二に「人爵」という言葉を思い出させた。

 春を意識した配色の服装は、石倉のゴルフで焼けた肌を引き立てている。明るめなグレイのスーツ、水色のストライプが入ったワイシャツ。左手の薬指には、結婚指輪ではなく、カレッジリングをはめている。ファッション雑誌から抜け出たような外見と、古くさい人生論や政治論との落差がおかしかった。

 話が一区切りつき、石倉は空になったプラスチックのカップを、三上久美子に向かって差し出した。久美子は雄二の同期で、昨年の春に営業部から異動してきた。石倉とは、何かにつけて衝突している。久美子が一瞬むっとした表情をしたので、雄二がワインのボトルに手を伸ばした。

「余計なこと、するな。三上に頼んでんだぞ」

 石倉がいった。久美子は、むっとした表情のまま、雄二の手からボトルを取り上げた。別に誰にお酌されたからって、安ワインの味が変わるわけじゃなし。雄二はそう思うのだけれど、世の中には、誰に注がれるかで酒の味がぐんと変わる人たちがいることぐらいは知っている。

 桜は満開だった。

 桜の花びらが舞い降りて来て、石倉のおでこにぴたりとくっついた。インド人が赤い印をつける位置だ。雄二はくすりと笑ってから、石倉に声をかけた。

「部長、おでこに花びらがついてますよ」

 みんな、それを見て、つい笑い声をたてた。石倉はわざとらしく顔をしかめた。

「おい、重松っ。お前は、ほんとに情けない男だなあ。さっきから、そわそわしてると思ったら、桜の花びらばっかり見てんのか。医者のかみさんの稼ぎで生活してるから、緊張感が足りないんだよ。いいか、会社ってもんはなあ、社員たちの切った張ったで成り立ってんだぞ」

「はあ……」

 自分に緊張感が欠けているとしても、奥さんの収入のせいじゃない。自分自身の能力の問題である。

「なあ、重松、がんばって、かみさんを追い抜けよ。見返してやれよ」

 見返す、なんて。

 僕は奥さんに対して何の劣等感も持っていないし、奥さんだってちゃんと僕に敬意を払ってくれている、と思った。見返す必要などない。そういいたかったけれど、石倉のような男にはわからないだろう。

「お前、いったいいくつになったんだ?」

「来月で、三十一です」

「それでも、三十過ぎてんのか。頼りないなあ。いいか、だいたい、おれの三十の頃はな……」

 このフレーズが出たら、バブル時代の昔話だ。絢爛豪華な武勇伝も、雄二にとってはおとぎ話にしか聞こえない。久美子は、あからさまにため息をついた。先輩の峰岸が、石倉の言葉をやんわりとさえぎる。

「まあ、部長、いいじゃないっスか。こいつみたいなのが、意外と会社の潤滑油だったりするんですよ」

 調子のいい峰岸は、いいながら、雄二に視線を向け、ワインのボトルのほうをあごでしゃくった。雄二は釈然としない思いを抱えたまま、それでもボトルを持ち、石倉のカップに安ワインを注いだ。石倉は、満足そうにカップに口をつける。

 峰岸がいった。

「僕も、重松みたいに食わせてくれるかみさん、探そっかなー。そしたら、会社辞めて、専業主夫もいいなあ。料理とか、意外と楽しそうだし」

 そんな気もないくせに。峰岸に「主夫」になる勇気はないだろう。

「峰岸まで、何、くだらないこといってるんだ」

 石倉の荒々しい声にたまりかねたのか、久美子が口を挟む。

「でも、部長、今はそういう時代ですよ。うちみたいな化粧品会社は、女性の気分に敏感でいないとまずいと思います。いくら、人事部だって」

 石倉は、聞こえないふりをして、わざとらしく桜を見上げて目を細めた。

 お開きになった後、雄二は久美子とつい数日前に入社した新卒の女子社員二人と、駅前のファミリーレストランに入った。雄二はコーヒーを、久美子はビールを、新卒女子たちはブルーベリーシェイクとジンジャエールを、それぞれ頼んだ。うるさそうな上司たちから解放されたせいか、新卒女子たちは急に口数が増えた。

「重松さんの奥様って、お医者様なんですか? すごい」

「何の専門なんですか?」

 雄二が答えるより早く、久美子がいった。

「産婦人科。赤坂で開業してんのよ。何かあったら、紹介してもらったら」

 二人はほとんど同時にいった。

「何かなんて、そんな」

 短大を卒業したばかりの彼女たちは、産婦人科をピルをもらうところとしか認識していないのだろう。雄二は、運ばれて来たコーヒーに、ゆっくり砂糖とミルクを入れた。デザートや菓子はあまり口にしないが、コーヒーは甘くなければ飲めない。

 新卒女子たちは、雄二たちのなれそめを聞きたがった。まだ二十歳の彼女たちは、五つ年上の女と結婚をする男が珍しいらしい。

「マラソンの練習会で知り合ったんだ」

「マラソン?」

「マラソン?」

 またもや、きれいに声が重なった。


 気まぐれで応募したマラソン大会だった。スポーツメーカーに就職した大学時代の友だちと酒を飲んでいる時に、勢いで約束してしまった。ランニングの経験など皆無だった。知らないから、マラソン大会が楽しそうなイベントに思えた。

 しかし、日常に追われているうちに、気がつくと大会まで三ヵ月を切っていた。

 そんな時、友だちに誘われ、週末の午後に行われた練習会に参加した。十人ほどで、皇居を二周するという。

 奥さんになった女性とは、待ち合わせ場所である信号ではじめて会った。きれいな人だな、と思ったけれど、それ以上の感情を抱いている余裕はなかった。雄二は、二周目の途中で音を上げて、そこからは早歩きになった。同じぐらいのペースで走っていた〝きれいな人〟の後ろ姿は、どんどん遠くなった。近くの銭湯で汗を流し、みんなでビールを飲みにいった。そこではじめて、窪山今日香という名前を知った。

 それから、練習会で三回、そして本番のレースを一緒に走った。一緒といっても、本番でのタイムはかなり差がついた。雄二は本番でも二十キロ過ぎから歩いてしまい、制限時間ぎりぎりの六時間四十五分でなんとか完走した。今日香さんは、四時間十七分というタイムで走りきった。初マラソンとしては、かなり早いらしい。打ち上げの飲み会では、それより遅いタイムの男性はみんな悔しがった。

 マラソン大会から十ヵ月後に二人は結婚した。二人にとっては、自然な流れだったけれど、周りは驚いた。交際期間の短さも年齢差も、開業医とサラリーマンという二人の立場も驚きの理由だったようだ。

「なんか、ドラマチックー」

「いいですねえ」

 新卒の女子たちは長いまつ毛をぱたぱたさせた。

「そうかなあ?」

「そうですよぉ。だって、それ一目惚れでしょう。五歳も年上の女の人に。なんか、フランス映画みたいです」

 おいしそうにビールを飲んでいた久美子が、からかうような口調でいった。

「単純ねえ」

「すみません」

「別に、あやまらなくていいけど」

 久美子は、よけいなことをつけ加えた。

「他の男ども、奥さんのタイムより遅い人は悔しがって、早い人はほっとしたらしいわよ。でね、重松くんだけが、素直にほめたんですって。すごいですねって。その一言で、美人で優秀な奥さんがころっといっちゃったみたい」

「えー、それだけですか?」

「うん、それだけ。ごめんね」

 雄二が答えると、久美子はしみじみとした口調でいった。

「素直にすごいですねって女をほめられない男が多いじゃない。我が社も含めて。だから、そういう普通の反応がじんとくるのよ、きっと」

(次回に続く。次回「育児休暇をとる男性は3%に満たない」は9月25日公開予定)

この続きは有料会員登録をすると
読むことができます。
cakes会員の方はここからログイン

1週間無料のお試し購読する

cakesは定額読み放題のコンテンツ配信サイトです。簡単なお手続きで、サイト内のすべての記事を読むことができます。cakesには他にも以下のような記事があります。

人気の連載

おすすめ記事

妊娠、出産、育児、結婚、そして仕事。女性が自分で選択できる時代が、きっとくる。

この連載について

初回を読む
産む、産まない、産めない

甘糟りり子

妊娠、出産、育児、家事……全くもって女性の人生は大変だ。女であるというだけで「あたりまえ」にできることが要求されるのだから。そして仕事をしたければ、その「あたりまえ」でさえ手放さなければならない。女性は、果たして「産む」だけの機械なの...もっと読む

この連載の人気記事

関連記事

関連キーワード

コメント

Tweetがありません