第9章それは「男の美学」なのか?|4支配欲としての「男らしさ」

サロメの性的なアピールは、彼にまさに「男らしく」あることを要求し、しかもその「重荷」に耐えられないことを以て、男性としての死亡宣告を突きつけるといった恐ろしいものではなかったかーー。平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは、「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日毎日更新)


4支配欲としての「男らしさ」征服と支配

 さて、では、一体どうであると、性的な意味で「男らしい」と言えたのか?

 フランスで、この当時、「男らしさ」の教科書としてよく読まれていたのは、アルフレッド・デルヴォーの『現代好色辞典』である。その根本にあるのは、「男らしい男は女を『手にいれ』、言葉のあらゆる意味で『女をものにし』なければならない。つまり『女から快楽を味わい』、『女を利用し』、『女を言いなり』にさせなければならない」といった考え方である。それがつまり、少なくとも男同士の間では、「カッコよく」、お手柄自慢であったということを、コルバンは様々な具体的事例を挙げて説明している。

 デルヴォー流のセックスは、「射精の強さを促すと考えられていたある種の激しさと、交接行為の迅速さ」が重要で、その表現は、「仕切り壁をぶち破る」、「血だらけになるほどセックスする」、「金玉がひっくり返るほどヤる」、……と引用するのも憚られるほどである。激しければ激しいほど、早ければ早いほどいい、というわけで、女性からのセックスの巧拙の評価は一切考慮されていなかった。

 征服欲、支配欲がこうした「男らしさ」の目的なのか、それとも性的欲求不満の解消を自由に、好きな時に行うために、女性の征服と支配が必要だったのか、はたまた、その解消の仕方が支配的であることで征服欲が満たされたのか。……

 同時代の『感情教育』(フローベール)や『谷間の百合』(バルザック)、あるいは『悪の華』(ボードレール)といった文学作品で描かれた女性への憧れや崇拝、繊細な幻滅や共感などとは著しくギャップがあるが、文学とポルノが同時代に存在するのは、現代の日本も同様で、また作家の内面も多面性を含んでいた。『ボヴァリー夫人』や『悪の華』のような優れた文学作品が、このような風潮の中で風俗壊乱の罪に問われたこと、また同性愛者は必然的に「男らしくない」として蔑まれたが、ワイルドが訴追されたのはこうした時代だったことを併せて考えるべきである。

 勿論、その中間には、更に様々な人がいて、慎ましやかな美しい男女の恋愛も無数にあったであろうというのは、これまた今の時代と同じだろうが。

 他方、夫婦の性生活は、むしろ医学的な見解を伴って、これとは対照的に、抑制的に「管理」されてゆく。「夫婦の営みを導くのは男性の役割」であり、「交接行為の雰囲気、時刻、リズム、体位、そして、間隔に配慮」した「正しい性交」が称揚され、逸脱的な行為は禁じられた。しかし、これとて、男性が支配的であったことには変わりがなく、古代ギリシア以来の「オイコス」の支配の最深部とも言えよう。妻の性欲の「管理」責任は、夫にあったのである。

「男らしさ」という重荷

 以上はフランスの事例だが、ここで指摘された「男らしさ」の問題性は、悲しくなるほどに、今日の日本とも連続している。

 コルバンに言わせれば、こうしたかたちで発揮されるべき「男らしさ」は、結局のところ、男性自身にとっても重荷であり、それは「性的不能」に対する度外れの恐怖心が証明している。

 例えば、ワイルドも影響を受けたギュスターヴ・モローは、この時代の世紀末美学を代表する画家で、「運命の女」という、男性を破滅に導く女性を描いた作品で知られている。最も有名なのは、預言者ヨカナーンの首を抱えたサロメの絵である。

 モローは、一体、どんな頽廃的な趣味の人物だったのだろうかと想像するが、実際は、育ちがよく虚弱体質で、ひたすらアトリエに籠もって仕事に打ち込み、母親を生涯愛し続け、恋人だったアレクサンドリーヌ・デュルーとも、所謂〝プラトニック〟な関係だったのではと思われるほど、温和なつきあい方をしている。

 その一方で、唐突に普仏戦争に参加したり、《ユピテルとセメレ》や《ユピテルとエウロペ(エウロペの略奪)》のような、ほとんど冗談のように「男らしい」絵を描いたりする一面も持ち合わせている。実際、彼の書簡には、「男らしさvirilité」という主題についての説明もある。

 モローは実のところ、嗜虐的なサロメに欲情していたなどということでは更々なく、むしろ、これまで見てきたような粗暴な「男らしさ」が称揚される時代にあって、到底、それを発揮できない自分に、繊細な不安を感じ続けていた人かもしれない。

 サロメの性的なアピールは、彼にまさに「男らしく」あることを要求し、しかもその「重荷」に耐えられないことを以て、男性としての死亡宣告を突きつけるといった恐ろしいものではなかったか。しかも、単なる淫婦であれば、それを蔑むことで自己防御が可能であったろうが、彼が、その少女の無垢に込めた不安は、ひょっとすると、自分の母もアレクサンドリーヌも、女性であるからには、そんなふうに自分を滅ぼすような認識を秘めているのかもしれない、というものだったとも想像される。それは、スフィンクスと見つめ合う彼のオイディプスにせよ、トラキアの娘に見下ろされるオルフェウスの首にせよ同様で、だからこそ、翻ってほとんどアール・ブリュット的とさえ感じられるファンタジックな《一角獣》では、女性たちによる優しい受容が夢見られている。



参考文献はこちら

コルク

この連載について

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カッコいい」とは何か

平野啓一郎

『マチネの終わりに』『ある男』を発表してきた平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売の新書を全編連載。 「カッコいい」を考えることは「いかに生きるべきか」を考えることだ。(平日...もっと読む

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guriswest 男よ。どんだけ弱いんだ。 6日前 replyretweetfavorite