文学というアプローチで描く日本の精神史
日本の社会や国家の本質は何か。こうした問いかけは史観によって答えられることが多い。史観とは「なぜこのような日本の社会や国家ができあがったのか」という説明である。史観が制度史に限定されるなら史実と照合しやすい。だが、この問いかけの対象には精神史が潜む。精神の歴史である。人々の内面に存在する精神は各種事件の表層からは見えない。しかも精神史は複数の事実の整合的なまとめよりも、信仰や教理など簡素なモデルとして提出する必要がある。天国や浄土の確信、あるいは奇跡や聖者への帰依などだ。こうしたモデルはその簡素さゆえに虚構に近い。ここで精神史は文学に接近する。文学によって前近代から近代の日本の精神史を描き出す試みはいくどとなく試みられてきた。そうした試みの一つとして読むとしても、高橋和巳『邪宗門』は壮大なスケールをもっている。
「邪宗門」という言葉は字義的には「邪悪なる宗門」である。「宗門」は宗教とは微妙に異なる。いま日本人の大半に「あなたの宗教は?」と問えば無宗教と暢気に答えるだろうが、続けて「あなたの家のご宗派は?」と問えば、親の葬式も出したことがない若者を除けば、浄土真宗、曹洞宗、真言宗といった宗派名を何の矛盾も感じることなく答えるにちがいない。この「ご宗派」が「宗門」であり、宗門としてあってはならないものが「邪宗門」である。社会や国家から邪宗門の人は排除される。
歴史的には「邪宗門」は、江戸時代の禁制の文脈から、キリスト教(切支丹)を指してきた。「五箇条の御誓文」発布の翌日に発された最初の禁止令「五榜の掲示」の第三札にも「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ若不審ナル者有之ハ其筋之役所ヘ可申出御褒美可被下事(キリスト教邪宗門については禁止する。不審者を役所に通告すれば報償を出す)」とある。なお「切支丹邪宗門」という表現については、キリスト教がイコール邪宗門か、キリスト教と邪宗門は二項なのか、解釈に余地があるが、いずれも広義に邪宗門であることは変わりなく、国家秩序に反する敵と見なされていたのはまちがいない。
国家が敵対し排除する邪宗門には国家の精神性が対照的に映し出される。あるいは邪宗門こそが天皇制という国家幻想を炙り出す鏡像である。この像から精神史の史観のモデルを描き出すことで、日本国家の精神的な呪縛、「共同幻想」というものの正体を暴露することが可能になる。高橋和巳の『邪宗門』はこの課題(国家共同幻想の暴露)に、小説としての豊穣さを含めながら真正面に挑んだ作品でもあり、近代日本の精神的な呪縛の仕組みを逆説的に描きだしてもいる。しかもこの逆説には、さらにもう一段の逆説が加わり、国家に反逆する反国家精神や批判もまた、結果的に倒錯した共同幻想の問題を含むことを明らかにした。この課題(国家批判の倒錯性)は戦後、いわゆる左翼勢力が倒錯していく傾向をなぞってさえいる。
「共同幻想」を極限化させる思考実験
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