いだてん』第33回「仁義なき戦い」〜満州の夢はどこから来たか

脚本・宮藤官九郎、音楽・大友良英、チーフ演出・井上剛、大注目のNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」第33回「仁義なき戦い」。1940年のオリンピック招致をめぐり互いに激しく争う東京とローマ。治五郎(役所広司)は田畑(阿部サダヲ)らをイタリアの独裁者ムッソリーニとの直じか談判に派遣する。しかし、ムッソリーニとの会見直前、IOC委員・副島道正(塚本晋也)が急病で倒れてしまう。招致の命運がかかったIOCオスロ総会は、他国の政府首脳に働きかけようとした日本の動きをめぐって大紛糾。絶体絶命の状況下で、治五郎は逆転の秘策を思いつく。



カフェ・ニュー・ミカワ

 久々に美川が登場した。

 美川は、関東大震災で大阪に逃れ、さらには山形に移り、そして郷里熊本に帰ってきた。彼が開いた、田舎にはあまりにもハイカラ過ぎる店の名は、「カフェ・ニュー・ミカワ」(なんとなく「ホテル・ニュー・コシガヤ」を思わせる響きである)。市電を模したカフェの内部には、東京の思い出が未練がましくディスプレイされている。浅草十二階の写真や絵葉書、竹久夢二(を数段劣化させた)風の小梅の絵。美術の細かい仕事が楽しめるシーンだ。

 けれど、どうやら美川にとってはこのカフェも、人生の終着点ではない。次の夢はなんと「大陸雄飛」、満州で一旗揚げることらしい。

 まるごと音声を消されてしまったため(大胆な演出!)夢の詳しい内容は分からなかったが、そもそも、昭和9年から10年(1934-35年)のこの時期、なぜ満州なのか。

 五りんの父親が満州から送った絵はがきの由来を想像するにつけても、この先、満州は「いだてん」の重要な舞台になることは間違いない。この辺で、これまでの物語を思いだしながら、少し満州国成立の背景をおさらいしておこう。少し、と書いたが、話はいささか長くなる。というのも満州という場所はほんの数十年でみるみるその姿を変えてきたからだ。

漱石の見た満州

 満州という名はそもそも土地の名ではない。そこに暮らしていたツングース系の狩猟民族のひとつ、女真族=満州族から来ている。のちに満州と呼ばれたエリアは、もともと大半が原生林に覆われた土地だった。女真族出身のヌルハチによって清国が樹立され、彼らはより温暖な南へと次々と移住する一方、北部を保護したため、満州は長らく広大な森林地帯であり続けた*1。

 18世紀ごろから満州には漢民族の入植が増えていったが、この森林地帯に決定的な変化をもたらしたのは、ロシアである。1896年(明治29年)、ロシアは日清戦争の賠償金に苦しむ清国に金を貸し付けるかわりに、鉄道敷設権をはじめ、満州のさまざまな権益を得た。建設中のシベリア鉄道を短くすませるには、ウラジオストクから北のハバロフスクに迂回するよりも、満州のエリアを横断するのが近道だったのである。鉄道には枕木が必要で、しかも当時の燃料は薪であったため、鉄道の拡張は森林開発を促した*2。ロシアが敷設した「東清鉄道」を使って、南から漢民族の人々がさらに入植し、沿線には漢人や白系ロシア人の住む都市が形成されていった。

 この鉄道の一部をまんまと獲得したのが日本であった。日本は日露戦争の見返りに、ポーツマス講和条約でロシアが敷設していた鉄道の南部分(南満州鉄道)を得た(1905年/明治36年)。当時、満州の利権がどのようなものか政府に知る人はほとんどなく、それは「思いがけない余得」*3に過ぎなかった。初代総裁の後藤新平と児玉源三郎は、表向きは鉄道経営の仮面を装い、その陰でさまざまな施設を増やしていくことで満州に食い込む計画を立てた。

 かくして日本と満州の関係が始まったのだが、この頃、内地にいる人間にとって、まだ満州はどんな場所なのか、そこにどんな価値があるのか見当もつかなかった。1909年/明治42年、美川のアイドルだった夏目漱石は、「南満鉄道会社っていったい何をするんだい」と、旧友で当時満鉄の第二代総裁だった中村是公(よしこと)にたずねた。この問いがきっかけで、漱石は級友の是公に案内されて満州を漫遊する。日露戦争前にロシアがすでに都市化を進めていた大連をはじめ、鉄道沿線の都市は、ロシアの作りかけた景観に日本趣味が継ぎ足されて、エキゾチックな景観を持っていた。帰国した漱石は、紀行文『満韓ところどころ』を新聞に掲載する一方で、当時の満州の経営について「日本の開化を一足飛びに飛び越して、直に泰西(ヨーロッパ)の開化と同等の程度のものを移植しつつ」あったが、ただしそれは「日本内地の文明が行渡りもせぬ中に巍然として宏壮なる建築がポツリポツリと広い場に居って得られるというような不揃なハイカラ」(『満韓視察』)でもあった、と皮肉っている。漱石の目には、当時の満州の文化はまだ、急ごしらえでないまぜのものに映ったのだろう。

四三たちの見たハルビン

 鉄道沿線を中心に、満州は次第に発達していったが、そこにはいくつもの思惑が重なっていた。領土は清国である一方、日本が鉄道の南部分を占め、北側の路線はあいかわらずロシアのものだった。

 辛亥革命(1911年)によって、満州人の建国した清が滅び中華民国となると、満州地域でも民族主義が高まり、政情不安な土地となった。さらにはロシア革命(1917年)によってロシアがソ連になり、事態はますます複雑になっていった。

 金栗四三三島弥彦がストックホルム大会(1912年/明治45年)に向かったのは、まさにこの混迷の最中だった。彼らが乗った「ウラジオストク→ハルビン→満州里」という路線は、ロシアの敷設した鉄道のひとつだ。いまのシベリア鉄道はウラジオストクからぐっと北へ大回りして、ウラジオストク→ハバロフスク→チタというルートをたどるが、この東清鉄道を使えば、清国/中国の領土を横断して、ウラジオストク→哈爾浜(ハルビン)→満州里→チタと近道ができる。この路線は長らくロシア(のちのソ連)の管轄下にあった。金栗と三島が中国のハルビンでなぜかロシア兵にパスポートを求められたのは、このような経緯だった。しかも、辛亥革命直後とあって、日本人と民族主義を掲げる中国人との間には以前にはない緊張関係が走っていた。金栗と三島が街の中国人たちから感じた不穏な空気は、けして気のせいではなかった。

松岡洋右と満鉄

 満鉄の経営をさらに混乱させたのは、日本側の方針自体、統制がとれていなかったことである。鉄道の経営は満鉄だったが、そこには、陸軍(関東軍)、外務省(領事館)の思惑が重なって、どこまでが経営でどこまでが政治なのか、どの役割にどこが関わるのかが曖昧だった。その問題がはっきり表れたのが、ロシア革命後の松岡洋右の活躍だった。

 のちに国際連盟の全権大使となる松岡洋右は、ロシア革命後に満鉄の理事を4年半(1921-1926年)、副社長を2年(1927-29年)勤めた。この時期、外務省はソ連との関係が緊張するのを避けるべく、慎重な態度をとっていた。ところが、松岡は逆に、満鉄の路線を拡大すべく、外務省には独断で中国の張作霖に接近した*4。この交渉によって満鉄は路線の一部を獲得するが、さらなる交渉の最中、張作霖は、関東軍の暗躍によって爆殺されてしまう(1928年/昭和3年)。

 松岡はこの事件ののち満鉄を辞め、国会議員に転身する(1930年/昭和5年)。その議員質問で彼は満鉄時代の経験を活かし、満蒙こそは日本の「生命線」であり、さらなる徹底した進出が必要であると主張するとともに、外務省の満州政策をこっぴどく問い詰めた。

 「一撃を加えたのち、巧みに協調へと転向する」のは、「鼻っ柱の強い」松岡が交渉でしばしば用いるやり方だった*5。「満蒙は日本の生命線」というのも、あるいはそうした彼一流の「一撃」だったかもしれない。いずれにせよ、このフレーズは新聞で大きく取り上げられ、松岡は一躍有名になった。報道の多くは日本が満州の権益を拡大する必要性に対して肯定的に伝え、国民にもその気分は波及した。満州事変の直前には、帝大生でも「満蒙に武力行使は正当なりや」の質問に「然り」(はい)と答える者が8割以上いる状態だった*6。

満州事変から国際連盟脱退へ

 そして、1931年/昭和6年9月、関東軍により南満州鉄道の線路が爆破され、これを中国兵の仕業と見なした関東軍は、次々と都市を占拠していった(1931年/昭和6年9月)。これが満州事変である。関東軍はこの機に乗じて、満州を中国と分離させ、軍の主導によって、満州国の建国が宣言された(1932年/昭和7年3月)。建国の謳い文句は、「五族協和」「王道楽土」、すなわち日・満・漢・蒙・朝の五民族が共生する国家をつくるというものであった。美川のような人間には、夢を育むのにうってつけのスローガンだったことだろう。

 対する中国はこれを日本による不当な侵略ととらえ、国際連盟に訴え出た。五・一五事件は、まさにこの政情不安の時期に起こった。事件後、満鉄第12代総裁から急遽外務大臣に抜擢された内田康哉は、国を「焦土」にしても満州国を堅持すべし、と発言し、絶対譲歩しない構えをとった。

 連盟からはリットン調査団が派遣された。その報告書は、中国の主権を維持する一方で、日本の権益も認める内容だったが、国際連盟の全権大使となった松岡洋右は、雄弁な英語で満州国の正義を強く訴え、日本を十字架にかけられたキリストになぞらえた。一方、水面下で松岡は、脱退の事態を避けるべく各国代表から妥協案を引き出そうと模索していたが*7、その間にも、関東軍は次々と満州での攻撃を続けたため、各国の日本に対する不信は強まった。結局、各国との交渉は実らず、1933年(昭和8年)2月、リットン調査団報告書は賛成42、反対は日本の1票のみで可決された。翌3月、日本は国際連盟脱退を通告した。不退転の強い構えを見せてから相手との協調に転じるという松岡洋右のやり方は、結果的には失敗に終わった。

 ところが、帰国した松岡は国民の熱烈なる歓迎を受けた。日本国内の報道は、国際連盟の脱退を、むしろ世界に対する日本の正義の発露として喧伝し、松岡は国民的英雄として祭り上げられた。松岡というポピュリストが大衆を扇動したというよりは、むしろ新聞というマスメディアと大衆のあいだで形づくられた指導者なきポピュリズムに、松岡がポピュリストとして迎え入れられたのである*8。

 以後、満州はますます新天地として注目されるようになり、各地から満蒙開拓団が試験的に派遣されるようになった。満州国の皇帝として祭り上げられた溥儀が昭和10年に来日すると、日本国内は満州ブームに沸いた。美川が「カフェ・ニュー・ミカワ」で満州の夢を語り出したのは、まさにこの時期だったのである。

 当時の外交評論家清沢洌は、松岡や内田の外交的身ぶりに対して次のように批判している*9。「外交というものには、二つの禁制があります。一つは『断じて(ネヴァー)』とか『常に(オールウェーズ)』とかという断定的な言葉を使わないことであり、第二は決して結果を急がないことである。この二つの禁制に背いた外交は、過去において、長い眼でみるときっと失敗しています。これが外交というものが劇的でない理由であり、また健全なる外交が国民の喝采を受けない理由でもあるのです」。のちに緒方貞子は、この清沢の外交評論を高く評価している*10。

 1970年代から国連公使として活躍し、1991年に日本人初の国連難民高等弁務官となった緒方貞子は、1964/1966年に『満州事変ー政策の形成過程』を書き上げた。彼女のこの論文には、犬養内閣時代の外相で、彼女の祖父でもあった芳澤謙吉への聞き取りも活かされている。ちなみに貞子の名付け親は曾祖父の犬養毅で、緒方という名字は、夫で緒方竹虎の息子の緒方四十郎から来ている。

仁義なき孤立

 ところで、日本の連盟脱退の過程で裏方として苦闘したのが、国際連盟に6年勤め、満州事変後は事務次長として各国大使と松岡との間の調整役を担った杉村陽太郎だった。杉村は、連盟脱退とともに多年苦楽をともにした各国の友人とも袂を分かち、脱退にいたる交渉の疲れを癒やすべく、アルプス山中のホテルに閉じこもって回顧録を書いた。回顧録で杉村は自身を、「平和の落武者」と呼んだ*11。

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kaerusan 今朝は緒方貞子さんのドキュメンタリがアンコール放送されましたが、満州事変、犬養毅、松岡洋右、清沢洌、杉村陽太郎、緒方竹虎といった固有名詞に興味をお持ちのみなさま、こちらはいかがでしょう。 https://t.co/bxvwJ1e4eN 約2ヶ月前 replyretweetfavorite

kaerusan いだてんを見続けている人で緒方貞子さんのことを考えている方は、こちらをどうぞ。https://t.co/bxvwJ1e4eN 4ヶ月前 replyretweetfavorite

shingoy あの話でここまで解説できるとかほんとすごい 5ヶ月前 replyretweetfavorite

cosi_me https://t.co/fKuRWJ2FJJ 5ヶ月前 replyretweetfavorite