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丸っこいそれに触れると春先が伝染るからミトンを両手にはめる
「虚数を、具体的に考えようとしないでください。例えば負の整数ならマイナスの気温などが具体例ですが、虚数の具体例は存在しません」
近藤先生はそう言って、淋しそうな表情になった。
わたしは胸が鷲づかみにされて、どうしてもそれを見つけてあげようと思った。
虚数の具体例。それがあれば、先生を救ってあげられる。
休み時間になったとたん、数学部の土浦の胸ぐらをつかむ勢いで「ねえ! 虚数の具体例教えてよ!」と叫ぶように聞く。
「お前寝てたの? いま近藤がないって言ってたじゃん」
「だから! あんただったら分かると思ったの! あんた天才とか言ってたじゃん、自分で」
「人類に無理なことは俺にも無理だわ」
土浦は言ってしししと笑う。
「何で無理なのよ!」
「二乗してマイナスって、矛盾だからまず。計算上やってるだけで、自然界には実在しない。実在するとして、それはこの世じゃないだろ」
黒板に、先生の癖のある字で小文字のiが書いてある。
それが先生の愛みたいで悲しい。
それが二乗でマイナス1って。一体何の呪文だろう。
お兄ちゃんはパティシエを目指している。高校を卒業したらフランスに修業に行くのだ。お兄ちゃんは小学生の頃から家のキッチンでお菓子作りに励んできた。
「マカロン?」
「うん、パリといえばマカロン」
「何で出来てるの?」
「卵白と砂糖」
「ねえ、二乗するとマイナス1になる具体例って何?」
「卵白だよ」
自然にお兄ちゃんは言う、卵白を泡立てながら。銀色のボウルの中で、卵白が電動ミキサーにより撹拌され、泡立てられる。角(つの)が立つまで。
卵白がメレンゲになる。
メレンゲに味と色をつけ、マカロナージュという泡潰しをしてからオーブンで焼く。マカロナージュが不十分だと膨らんでひび割れが出来てしまう。
焼き上がったら金網の上で冷ます。
理系頭のお兄ちゃんは、マカロンをほとんど真円に作る。「料理は数学だ」がお兄ちゃんの口癖だ。
冷めたものを、お兄ちゃんは大理石のプレートの上に碁盤の碁石のように整然と置いてゆく。
冷めた二つの満月の間にクリームを挟むと、マカロンだ。
近藤先生が黒板に書いたiの上の点だ。
マカロンはクリームを挟んで二重になり、磨かれた大理石に映る。
銀色のボウルに残ったメレンゲは、泡を失い消えてゆく。
「イマジナリーナンバー」
近藤先生の声が聞こえる。
大理石のマーブルの渦が動き出す。
低気圧になり、映ったマカロンを反時計回りに巻き込みながら、大理石はどろどろになって、向こうの、反物質の世界に抜けていく。
「食紅を耳掻き一杯」と指示され渦巻き管は桜吹雪に
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