「黒船来航以来、蒸気という言葉は開明的な学者たちの合言葉になった。新知識をひけらかしたい者は決まって蒸気と言い、蒸気船の必要性を叫んだ。だが誰もその原理について知らなかった。石炭を燃料にして軍船を快速で動かし、蒸気が上がるという事実は分かるのだが、どうやれば液体や固体が気体になるのか、その原理が分からない。だがここには——」
大庭の声が大きくなる。
「気化、沸騰、飽和、液化といった概念が書かれている。いかにも、これを読むだけで蒸気船が造れるわけではない。だがその原理を知ることなくして、蒸気船を造ることはできん」
「至極、尤もなことです」
「そうか、そなたにも分かるか。わしも蘭本を渉猟したが、原理の書かれた本と実用的な本が別個になっているものが大半なので、その橋渡しの役割を担うものに出会えなかった。それがこの本では、実によく書かれている。むろん蒸気機関だけではなく西洋の技術全般について、窮理から結び付けてくれるので、たいへん重宝している」
それこそ大隈が求めているものだった。
「それを貸してくれませんか」
むろん自分で読むつもりはなく、蘭語に秀でた者に又貸しして要点を教えてもらうつもりだ。
「おい」と言って大庭が本を引き寄せる。
「そなたの蘭語では、理解するのに一年以上かかる」
大隈が威儀を正して平伏する。
「そこを何とか」
「わしは今、こいつを訳出しようとしている。だから貸せない」
「では、教えて下さい」
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