「大庭先生、まずは一献」
大隈が大庭雪斎の茶碗に酒を注ぐ。大庭は酒に目がない。
「そなたは、よく気がつくな」
すでに大庭は坊主頭を朱に染めている。
大庭は医者の家柄なので、頭を丸坊主にしている。いわゆる医者坊主の出身だが、好生館(医学寮)教導方頭取(教頭格)から蘭学寮の初代教導(同)に転じただけあり、佐賀藩内でも抜群に優秀だった。この時、大隈より三十二歳上の五十一歳である。
「先生のご著作の『民間格致問答』を読むと、万物の法則のすべてが語られていますが、あれは本当なのでしょうか」
『民間格致問答』とはオランダのボイスの著作で、万物の法則、いわゆる物質の構成、慣性、引力、天体、水、大気の成分、電気、磁気などについて記している。それを日本語訳したのが大庭だった。また蘭学寮の教科書となった『訳和蘭文語』も大庭の訳による。
「そなたは『民間格致問答』を読んだのか」
すでに大庭の呂律は怪しくなってきている。
「読みました。いや、厳密には詳しい者に聞きました」
大庭が「さもありなん」という顔で言う。
「そうだろう。そなたの蘭語の力では、あれは読めん」
「でも、おおむね理解しております」
「読まんで、どうして理解できる!」
大庭が茶碗を叩きつけたので、見事に茶碗が割れた。
「あっ、物質同士がぶつかり合って、一方が割れました」
大隈も大庭に負けじと酔っている。
「ああ、本当だ」
割れた茶碗からこぼれた酒が大庭の裾を濡らす。それを大庭が懸命にすする。
「固体は、原子の密度が濃い方が固い。だから低い方が壊れる」
「先生、着物の裾が酒びたしです」
「構わん。液体は原子密度の低い固体に染みこむものだ」
大庭は一張羅の八丈(八丈島産の生地を使った絹織物)をいつも着ており、それが汚れて垢光りしているので、その坊主頭と相まって「光八丈」と呼ばれていた。
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